詩索――エディプスの繭

夢のなかにいるのはなぜ?これは夢なのか、現実なのか。さすらい迷う影。幼稚な幻影。夢みたいな、曖昧な――生。現実。リアリティ。少年。家族。

典型的なエディプス家族。外面上は幸せな家族。しかし、その中にいる構成員それぞれにとっては、逃れがたい桎梏として感得される。――優しそうなお母さまじゃないですか?――もう、どこに行っていたの?

やさしさの繭に包まれて、窒息寸前の囲いの中で育てられた温室育ちは、自らの力で生きる力を失う。過度な配慮と独りよがりの愛情は、彼の自主性を根こそぎ摘み取る。何のために生きるのか。縛られた関係の返済のためか。愛情はそれが相手の自由を認めない限り、桎梏となる。

世界とのつながりの欠如。共同体社会、土地との結びつきを失った個人は、テレビや広告が魅せるプチブル的な、なんとなく上流志向の、殺菌された夢の幻影を求める。社会に大量に存在すると想像する自分と同じような想像上の中産階級たちは、繰り返し流れる広告やメディアが喧伝するイメージに従順して、本来自分たちが目の前にしている現実とは、どこか嚙み合わない豊かさの幻像を、それが自分が求めなければならない目的と思い込んで、それに己の全存在を投機する、いや、させられる。自分がそこへ向かっていると信じる想像上の現実と、現に自分が陥っている現実上の現実。その落差。幸福とは何か?その答えも分からないままに、世間が差し出す幸せの典型を、味が分からなくなるまでこれでもかと飲み込む。それがエディプス家族に象徴される極大化された核家族か、物質的な快楽の終わりなき追求か、どちらも本質的に差異はない。

核家族に集中した想像上の大量の中流の夢は、その幻影的な性格から、現実の社会野の崩壊を齎す。核家族の囲いの外には荒野が広がる。核家族の中心、愛憎と幻影の繭の中で育てられた温室育ち、「幼い顔立ちに、老成した笑い」の少年少女たちは、現実との回路を欠いたまま、幻影としての世界、本当らしさのない世界、嘘と虚栄にまみれた世界を、彼らの両親、あるいは教師からありがたく受け取るように勧められる。限りなく生きようとする若い衝動にとって、大人たちが押し付けるそれらの夢の残骸は、彼らにとってどのような意味をなすか?それは憧れか、それとも桎梏か。

リアルに生きようとする衝動は、しかし現実が崩壊した世界で、リアルを見つけることができない。アンチノミー。彼らがより生きたいと願う世界のリアルさと、その結果帰ってくる手ごたえのない夢の残骸との間の。回転扉を回るように、出口だと思ったらまた入り口に戻っている。リアルへの脱出口が、そのまま幻影への入り口であり、幻影への入り口がそのままリアルと地続きでしかないところの。自らが作り上げた幻影の箱庭。もはや誰も疑わない。嘘を嘘と分かっていながら、それを礼賛する。

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