演劇とわたし
「君は、心が不感症だ」
これは、私が初めてお芝居の先生に師事した時に言われた言葉である。大学を卒業して、すぐ。どうやってお芝居の勉強を始めたら良いか分からない私が、辿り着いた場所での出来事だった。
もう随分と前のことなのに、
“今、まさに目の前で起こっている事”のように鮮明に思い出せる。
どっしりとした深みのある低い声が、
思い出す度に何度でも、
何度でも、確実に、私を刺す。
胸がヒュッとして、身体が固まる。
台本を持っている手がどんどん冷たくなって、目の前がモノクロな世界へと変わっていく。全身の血の気がひいたあたりで、この言葉以降の記憶がなくなってしまうのだった。
この日から、私は台詞を喋ることが何よりも苦手で、最も恐ろしいものになった。
初舞台から3年ほど経った今でも、この言葉が呪いのように私にまとわりついてい
る。身体にロックがかかって、思うように身動きが取れない。いつだって自由になれない。酷く傷ついた自分が奥底にいる。
しかし、いま、私が苦しいのは、傷つき続けているのは、この言葉のせいではない。誰のせいでもない。自分自身のせいだということに私は気づいてしまった。
どこにいっても言われることは同じで、
問題になるのは、いつだってその芝居力のなさだ。
そう。さらに傷つくことを恐れた結果、私は逃げ続けていたのだ。何とか舞台に立ち続けることで、向き合ったつもりになっていたのだ。
戦おうとしなかった。
克服しようとしなかった。
諦める勇気も、辞める勇気もなかった。
だから、私は、呪いにがんじがらめにされ、自分自身を、許せないままなのだ。
真に、この言葉の呪縛から解放され、立ち直るには、訓練を詰むしかない。今の私では、圧倒的に技術が足りないのだった。
そういうわけで、最近は、舞台に立つことを辞め、ひたすら修行をしている。ずっとずっと憧れていた新劇の人たちと関わりを持ちながら。
戯曲を読み解き、
エチュードし、
身体をつかい、
セリフを喋る。
時には、出来ない!とグズり、葛藤しながら。今、自分はなにを感じていて、何がわからなくて、次はどうしたら良いのかを考える。
各所では「俳優です」と言いながら、「俳優になりたい」とずっと思い続けている。きっとずっとそうなんだろう、そう思いながら生きている。
それでも小さな1歩を踏み出して、新しい場所に行く。多くの人に出逢い、交流し、技術や思考のギフトをもらい、自分に向き合い、過ごす。そんな日々をたくさん過ごすことで、何歩か進んでいたらいいと思う。
一生終わらないこの旅で、いつか「あの時、私は苦しんでいた」と笑えるように。同じように苦しむ誰かに、いつか優しく手を差し伸べられるように。
これが、いまの
演劇とわたし。
(※写真は憧れている俳優の出演作)