嫌いな言葉
「わかるよ」という言葉が嫌いだ。
いや、正確には、嫌いだった。
「わかるよ」なんて日常的に使う言葉じゃないかと思うだろうが、ちょっと待ってほしい。私が嫌いなのはそんな相槌程度のものではない。
例えば、身内に不幸があったとか、大失恋をしたとか、大切な形見を無くしたとか、事故にあって入院したとか。どんな理由であれ、すぐには切り替えられないような、重大な、深刻な事態がおきて、失意のどん底にいるとする。
そんな時に言われる
「わかるよ」
いや、何がわかると言うのか。
一体全体無責任に、よくそんなことが言えたもんだ。と思う。
私たちは違う人間なのだから、すんなり「わかるよ」なんて言えるほど、簡単にわかりあえるはずがない。
貴方がどれほど辛くしんどい体験を人一倍していようが、この気持ちは私だけのものだ。いま、私が感じている絶望も痛みも、同じなど一切ありえない。だから、「わかるよ」なんて、簡単に言われることが嫌だった。
ある時、
私はものすごく失意のどん底にいた。
自分に失望したし、絶望していた。
そんな時、大好きな人にいわれた
「わかるよ」
瞬時に戦闘モードに入るきっかけ台詞のようなその言葉は、私が嫌いな「わかるよ」とは別物だった。
優しい人の言う「わかるよ」は、
真剣にこちらに向き合う言葉で、とてもあたたかい。たとえわかりきらなかったとしても、わかりたいと思って抱きしめてくれる。そんな愛ある寄り添いの言葉にもなりうることを、私は30歳を目前に初めて知った。
ただ、
自分が言うとなると話は別で
やはり、「わかるよ」とは簡単に言えない。
私に出来る最大限のことは「相手の気持ちを推し量ること」。これに尽きる。たとえ同じような経験をしたとしても、完全にわかりきることなどできはしないと、残念ながら、今でもそう思っているからだ。
私は貴方ではない。
貴方の痛みは、貴方だけがわかる、
貴方のものなのだ。
でも、優しい「わかるよ」をくれたあの人のように、沢山の愛を与えられる人になりたい。分かり合える努力をしたい。そう思うと、あんなに嫌いだった「わかるよ」も憎めない言葉になってしまったのだった。