ゆれる
いいお芝居は人も空間もゆれている。
そんな話を聞いてから、
ゆれる瞬間を求め続けている。
初めてゆれる実感を得たのは今年の春。
ワークショップで、エチュードをした際、相手役の言葉で涙が溢れた瞬間があった。
あの瞬間、わたしは確かに ゆれて、
相手役も私の涙を見て ゆれた。
泣いたのは役を超えて私だったのに、エチュードを見ていた人から「役の人生が想像できた」と言われたのは、演劇が引き起こすマジックなのだろう。
こうして、あの演劇的「ゆれる」瞬間に取り憑かれて、どうにかあの感覚に出会えないかと探し回っていたのだが、なかなか出会えず、そうか、あれは演劇特有の特別な作用で日常にはあまりない瞬間なのだなと、自分を納得させていた。
そんな矢先の事だった。
今年の初夏、
母が入院していた時のこと。
お見舞いに行った際に、母が父に貸してもらったイヤホンをなくしたことが発覚した。
父は物をなくされたことなんかより、
「なくしてしまってごめんね」を言えない母に、ものすごく憤りを感じていて、それが伝わらないことに苛立っていた。
怒りが発する無言の圧力というのは、それはもう、ものすごくて、父が黙りこくっているその間にも怒りが空気に電波して、ビリビリしていた。
それでも、やはり謝らず、イヤホンを探すパフォーマンスをする母の素っ頓狂な振る舞いに、父はもうカンカンになってしまって、この病室の空気は地獄かと思った。
でも、ゆれた。
ものすごくゆれていた。その場において私は完全に傍観者だったが、ゆれる空気に巻き込まれるのを感じた。
ああ、そうか。そうだったのか。
そうだったのか!
その時に、ようやく気づく。
人間はこんなにも簡単にゆれるのだと。
そして、日常的に当然のものとしてゆれが存在するのだと。
そんな気づきを持って
演技のレッスンに行く。
一緒に作業してもらって、感じる。
私、今、ゆれていた。
2人の空気が、ゆれていた。
内面のゆれも、空気のゆれも、
閉じていた五感が拡がって、繋がるような
お芝居の楽しさを知った。
実践で使えるかはさておいて、
優れた俳優が、ごく自然にやっているであろうこれらを得られたことが、嬉しい。
不器用だから、時間はかかるけど
大器晩成型なんだと信じて。
ひとまず、いまはこれで幸せ。