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早間玲子 日仏の架け橋としての建築──『早間玲子作品集』刊行を前に


知られざるレジェンド──フランスで活躍した日本人建築家

 1933年生まれの早間玲子は、フランスで初めて建築家としての営業ライセンスを得た日本人である。1966年から現在まで、半世紀以上パリに暮らしている。
 日本では、前川國男やジャン・プルーヴェのもとで働いた人として、また『構築の人、ジャン・プルーヴェ』(みすず書房、2020年)の編訳者としても知られているが、残念ながら、彼女が1976年に独立し、2013年に80歳でリタイアするまでの建築家としての輝かしいキャリアについて知る人は多くない。早間自身が日本へ向けてアピールすることはなかったし、長くフランス社会で生きるなかで、身も心も日本から遠く離れていたからだろう。その要因については後述したい。

 私は、「ジャン・プルーヴェ展 椅子から建築まで」(東京都現代美術館、2022年)の図録を編集するなかで、早間にエッセイの寄稿を依頼した。ジャン・プルーヴェとの最初の出会いとなったレストランの一幕に始まり、作品のみからは計り知ることのできない、ひとりの人間が描かれた素晴らしい文章だった(★1)。
 ジャン・プルーヴェ展の終了直後、早間から自身の作品集の編纂を依頼され、2022年秋から、再三に渡るミーティングの合間や前後に彼女の足跡を聞く機会に恵まれた。来日すると、半世紀の定宿である山の上ホテルに連泊し、ロビーでゆったり打ち合わせ、最後に「コーヒーパーラー ヒルトップ」で一服する。彼女がその振る舞いを伴ってもたらす時間は、古き良き時代を思わせるものであった。山の上ホテルは、昭和の名立たる文豪・文化人らに愛されたことでも有名だが、まさに彼女によってそれが体現されていた。2024年2月にホテルが休業となり、あのような空間と時間は令和にはもう二度と戻ってこないだろうと思わせる。そうしたクラシックな会合を大事にしつつ、他方、パリとの距離と時差を超えた今日のオンラインミーティングも、自身でデジタルデバイスを扱いながら難なくこなすことに驚嘆させられる。
 話題は多彩に広がったが、特にジャン・プルーヴェについては「謙虚さと人間愛に溢れ、これほど素晴らしい人が地上にいていいのだろうか」と、その人柄と精神を評したことが極めて印象深い。また、パリで坂倉準三がパワフルにしゃべり続けるシャルロット・ペリアンとの会合に疲弊し、お茶漬けを出してありがたがられた、前川國男のパリ出張時にはカレイのムニエルを提供するとその料理の腕に驚かれた、というエピソードなど微笑ましい。坂倉と前川にとって早間は「娘のような存在」で、パリに来ると自宅へ様子を伺いに来たそうだ。
 もはや建築史上の人物と言ってよい人々と直に協働してきた彼女自身もまた、生きたレジェンドである。単身パリに渡り、フランス社会において建築家として立身出世した偉人として、NHK連続テレビ小説のモデルになってもおかしくないだろう。

 現在、『早間玲子作品集 受け身の建築』(仏題:Les ouvrages de Reiko Hayama   Architecture Réceptive)は、刊行を直前に控えている。作品集を残すという意思は、おそらく彼女が自らの最期を意識したことにも関係があろうと想像する。彼女の功績をより深く日本の方に知っていただく機会になればと願っている。

ジャン・プルーヴェから受け継いだ精神

 建築家・早間玲子の仕事について最初に特筆すべきは、建築を通じ、日本とフランスの文化的・経済的な架け橋をつくった点である。まずはその重要な契機から振り返ってみたい。
 それは彼女の師であるジャン・プルーヴェの意思へと遡る。プルーヴェは、1971年に行われた「ポンピドゥー・センター」の国際建築設計競技の審査委員長を務め、イタリアのレンゾ・ピアノ、イギリスのリチャード・ロジャースらによる若きチームの革新的な提案を選び抜いたことは有名だ。
 昨今、国際建築コンペはそれほど珍しいことではないが、1973年のオイルショックによるフランス経済の低迷により、外国出身の建築家に門戸を開いたことへの世の抵抗も少なくなかった。プルーヴェは、そうしたなかでも経験の乏しい若き建築家たちを、社会的・技術的に支援し続けた。早間は、プルーヴェがテレビ出演の場でそのラディカルな提案を穏やかに擁護したこと、ポンピドゥー・センターの現場からもほど近いブラン・マントー通りのアトリエにレンゾ・ピアノが度々相談に来ていたことを証言する。プルーヴェの鑑識眼だけではなく、コンペ後の継続的な後押しがなければ、パリにあのような現代建築は誕生し得なかっただろう。

 プルーヴェは同時に、早間がフランスで建築家として活動していくことへの協力も惜しまなかった。それまで日本人がフランスで建築家の営業ライセンスを取得した前例はなかったし、方法すらなかった。プルーヴェによる文化大臣宛の手紙、私立高等建築専門学校の学長への手紙などの資料も本作品集に収録している。早間の高い資質と能力、そして想像力と創造的な精神を評価し保証するものだ。日仏の建築家ライセンス交換の制度は、そうしたパイオニアたちの尽力によって生まれていった。
 早間は後年、フランスの建築家ライセンス取得について振り返り、自身だけでは到底なし得ないことだった、プルーヴェによって開かれた日仏間の絆であった、と言う。プルーヴェの国際的な献身を間近に見ていた彼女は、独立時にある決意をした。

日本企業のヨーロッパ進出とともに

 1976年、早間玲子建築設計事務所の開設時、彼女が自身に課したミッションは、フランス人建築家と競合するような仕事をしないこと(あらかじめ仕事の相手を制限することになる)、そして自らの仕事をもって日仏の交流の架け橋をつくることである。
 彼女の仕事を錚々たるクライアントと共に列挙してみたい。まずは、ミノルタ、キヤノン、日立製作所、サンデン、ノーリツ、曙ブレーキ工業、ミツトヨなどの工場群である。いずれも日本有数の大メーカーの、ヨーロッパにおける生産拠点だ。東京銀行、三菱銀行、富士銀行、日本勧業銀行、山一證券といった大手金融機関もこぞって早間にインテリアデザインの依頼をした。既にすべて合併や廃業によって会社ごと存在していないが、当時は東京銀行はオペラ座付近に、他はシャンゼリゼ通りに軒を連ねた。日本企業の勢いたるや推して知るべしである。文化・教育施設としては、フランスで唯一の全日制日本人学校である在仏日本人学校をパリ近郊に設計し、またパリ国際大学都市の日本館を改修している。

 1980年代は、高度経済成長を経た日本企業がこぞって海外進出をした時期に当たる。早間は、そうした企業のヨーロッパ進出における足がかりとなる建築を数多く手掛けた。渡仏から10数年を経て、日仏双方の文化や慣習への深い理解があり、公的機関にも通じ、現地での豊富な建築実務経験をもった彼女にしか成し得ない仕事であった。クライアントも彼女を頼ることで、異国の地でスムーズに拠点を建設することが可能になった。
 企業が進出すれば、それに伴い多くの日本人がフランスへと渡ることになる。早間による建築が、そうして生まれる文化的・経済的な交流の起点になったのだ。
 ジャン・プルーヴェの自国を世界に開く意思、日仏の友好のための献身、そしてそれを受け継ぎ、日仏関係を物理的な建築によって紡いだ早間玲子の貢献がなければ、今日フランスでの日本人建築家の評価・活躍はなかったのではないか。そのようにも思わせる。

大きなスケールと手の仕事 受け身の建築(Architecture Réceptive)

 彼女の仕事のもうひとつの大きな特徴は、ライフワークとしてメーカーの生産拠点である工場を設計し続けたことだ。
 日本では、工場建築が評価されることはあまりない。都市計画として問題になることはあっても、建築デザインの議論の俎上に載せられることもほとんどないだろう。工場を設計し続けた建築家というのも寡聞にして知らない。

 早間は、前述の日系メーカーの工場建築を数々設計してきた経験から導き出した自らの哲学を、「受け身の建築(Architecture Réceptive)」と表す。
 一言で工場と言っても、当然プロダクトによって与件が異なる。また、工場に限ったことではないが、広いフランス国土の中で、敷地の地理的条件、自然環境はそれぞれまったく違う。あらゆる複合的な条件を抗することなく受け入れ、健全な建築の姿を模索し、個別具体的に構築していくのが彼女の方法である。一定の形式、共通のスタイルを持たず、また視覚的な署名性もないそうした仕事のあり方は、わけて西洋の文脈においては「建築」とも呼ばれ得ないものではないか、と彼女自身は言う。

 最初の仕事は1983年に依頼されたキャノンで、延床面積は34,300㎡。ミノルタは24,300㎡、日立は20,400㎡、サンデンは54,000㎡。その規模はアトリエとも呼ばれる一設計事務所が抱えられるものとは到底思えない。しかも施工においては、いわゆるゼネコンに頼らず、すべて分離発注のような業務形態で進められた。早間の事務所はプロジェクト全体のマネジメントも担ったがゆえ、一時期は20名以上の所員を抱えていた。
 フランスでは日本と異なり、建築家の責任は施工者よりもはるかに重い。建築家は前年担った総工事費に応じて保険料を支払うが、ある年の納付額の大きさはフランス中でも指折りのものだったそうだ。ゼネコンを選ぶことも可能だったが、彼女の「とことんまでやる」性格が自身の責任と負担を増やすことになった。寝る間を惜しみ、自らの能力を最大限に用い、沢山の仕事を遂行した。それは日仏の友好のためであった。

 急いで付け加えなければならないのが、早間が大規模な建築を設計するなかで、ディテールにこそ細心の注意を払っていたことだ。ジャン・プルーヴェを師とし、自らを「手の人」と評価する。作品集にも、構造部材と副部材の取り合いやサッシ周りなどを表す見事な手描きの図面が収録されている。「ミノルタ ロレーヌ」のガラス・鉄・木の集成材による複雑かつ軽やかな構成、「キヤノン・ブルターニュ本社」の地場産の石使いや豊かな庭園との調和などは、写真にもよく表れている。名高い地元産レンガによって仕上げられた管理棟が象徴的な「日立コンピューター・プロダクト・ヨーロッパ本社」は、フランス文化省により「特筆すべき現代建築」に指定され、文化財として100年間の保存が定められた。
 エンジニアのレオン・ペトロフは、ジャン・プルーヴェの親友であり技術的なパートナーであったが、その後、早間の事務所の相談役を担った。かつての同僚との篤い信頼、そして早間の人間的な魅力があってこその関係性だろう。
 「受け身の建築」は、確固としたディテールによって担保されている。

ミノルタ ロレーヌ
キヤノン・ブルターニュ本社
日立コンピューター・プロダクト・ヨーロッパ本社

ジェンダーと建築

 そうした輝かしいヒストリーの陰に、忘れてはならないことがある。早間が建築家としての舞台にフランスを選んだ、さらに言えばフランスに生きることを決めた要因には、ジェンダーの問題が横たわっている。
 渡仏前の修行時代、前川國男の事務所に入ることの苦労や、所員になってからも「箱入り娘」として丁重に扱われたがゆえの危機感が語られている(★2)。海外へ出るしかないと考えたのもそうした理由からだった。またジャン・プルーヴェからは、建築家として独立するならば日本よりもフランスの方が良いと勧められた。
 ただし、1976年の早間の独立時、フランスにおいても独立した女性建築家はわずか10数人で、男性ばかりの職業であったことに変わりはない。そうした状況のなかで、アジア出身の建築家として様々な専門家、職人たちと丁々発止とやり合い、建築をつくっていく苦労は想像を絶するものだ。彼女は、そうした苦労については決して語ることがないし、「仕事をしていて女性扱いはされなかったし、女性だから不利だとも有利だとも思ったことはない」とかつてを懐かしんで言う。ひたむきに生きるなかで、苦労を感じる暇などなかったのかもしれない。

 早間が引退をして事務所を畳んでから既に10年以上経っているが、彼女は日本に帰国するつもりはない。独立当初は事務所も兼ねていたパリ7区一等地(Quartier de Saint-Thomas-d'Aquin)の自宅は、19世紀に建てられたアパルトマンで、その内部は自らのデザインによってモダンに改装され、アルネ・ヤコブセンやジオ・ポンティらによる椅子、分厚い無垢材のデスクなどが配され、住み心地はさぞ良いことだろう。友人によって保護されて飼うことになった愛猫のクロもそれを感じているようだ。近隣には緑が多く、徒歩圏内に顔馴染みの肉屋、魚屋、八百屋なども揃っている。
 ただ、パリに住み続けるのは、おそらく長年の生活による慣れや愛着だけではない。かつて来日時に、日本のホテルスタッフのホスピタリティや、医療技術、食事などを称賛しながらも、日本にいると自分が自分らしく感じられない、フランスは不便なところもあるが「リベルテ(liberté)」の精神が自分には合うのだ、と洩らしたことがある。それは先のジェンダーの問題にも直結している。
 もし早間が1976年に日本に戻り独立していたら、どのような仕事や生き方が可能だっただろうか。彼女が日本を離れたこと、重責を伴うものの建築が文化の象徴として尊重されている国を仕事の場に選んだこと、さしたるアピールをすることなく良識をもって建築をつくり続けたこと、その地で最期を迎えることまでも覚悟したことは、日本社会への長期に渡る静かな批評であるように思う。


★1 早間玲子「Père spirituel こころの父 ジャン・プルーヴェ」、『ジャン・プルーヴェ 椅子から建築まで』millegraph・Galerie Patrick Seguin、2022年、62–63頁。
★2 UNICORN SUPPORT「interview#027 早間玲子」 URL: http://unicorn-support.info/2014/05/14/_1958_1/


文:富井雄太郎
ヘッダー写真:旭日小綬章を小松一郎フランス大使から授かる早間玲子


『早間玲子作品集 受け身の建築』

表紙イメージ

2024年11月9日発行
著者
 早間玲子
仕様 112ページ・A4変形判・上製本・スリーブケース付き
言語 日・仏
デザイン 小池俊起
印刷・製本 八紘美術
編集・発行 millegraph
ISBN 978-4-910032-10-8

価格 本体6,000円+税
書店様へ 買切りのみとなりますのでツバメ出版流通さんへご注文ください

目次

受け身の建築 早間玲子
建築
ミノルタ ロレーヌ
キヤノン・ブルターニュ本社
日立コンピューター・プロダクト・ヨーロッパ本社
サンデン・マニュファクチュアリング・ヨーロッパ
ノーリツ フランス
山形トヨペット
ベレバ ゴルフクラブ・ホテル
在仏日本人学校
在仏日本人学校 デファンス地区計画案
パリ国際大学都市日本館 改修
デュピュイ邸
インテリアの仕事
ドローイング・図面
ジャン・プルーヴェが開いた日仏間建築界の絆 早間玲子
データ
略歴

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