【story】[改正法案]

「誰もが思うだろう」という、頭ごなしに決めつける文章が嫌いだ。
誰もって誰って話ですよ。
これからは「〜と、思う人もいるかもしれない」と含みを持って述べること。
これ、法律で定めませんか。

育った環境も、向き合った物事も、関わった人だって違うのに、あんたにとっての「その他大勢」に巻き込まないで。
例えば出身地。
私は人口の少ない地方都市で育ち、大学は中規模の地方都市を持つ隣県の郊外に通った。
地元で就職し、しかし夢を追って上京。
20代半ばではじめて、日本一の都会の文化に触れた。
私が主観で知っている人生はこの人生だけだ。

かたや電車で私の隣に座る女子高生。
彼女が齧り付く英単語帳には、びっしりと書き込みがされている。
今年大学受験だろうか、真剣な目で単語を追う。
私はこの辺りの制服に詳しくないけれど、スカート丈などの着こなしを見れば、高偏差値の優秀な学生だろう。
きっと幼少期から厳しい親御さんに育てられて、将来はエリート街道まっしぐらなのだろう……というのは私の勝手な妄想で、もしかしたら真面目だけが取り柄の、勉強が苦手な子かもしれないじゃないか。
いけないいけない、私でさえ、『そうあってほしい』と思う妄想で、他者を偏見しかねないところだった。
私が彼女から得られる情報はただ一つ。
彼女は高校生という時期に、都会の文化に触れた生活を送っていて、今は英単語の勉強をしているということだけだ。
もしかしたら、親御さんが転勤族で幼少期は片田舎で生活していたかもしれない。
もしかしたら、今日はたまたま服装検査の日だから膝中までスカートを伸ばしているだけかも。
あらゆる可能性を模索することができるじゃないか。
そう、彼女の向こうに座っているうたたねスーツの中年男性なら、私とは違う見方をしたかもしれない。
もしかしたら、彼は彼女の通う高校の教員なのかもしれない。
お互いに気づいていないだけで、この二人は知り合いかもしれないじゃないか。

この車両でさえも、私の目では処理しきれないほどの情報が、一人ひとりの人生背景が溢れている。
それでもなお、小さな世界で書いたネット記事を信用してしまうのは、どうしてだろう。

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