
【書籍】デューティーフリー・アート 課されるものなき芸術(1-5章)
Power100で上位にノミネートされているヒト・シュタイエルによる思考書。分量が多いため、5章ずつ区切ってみていく。
巻末の人物紹介にもあるように、ヒトは日本映画学校(現日本映画大学)で学び、ミュンヘン映像単科大学でドキュメンタリー制作を専攻。そしてオーストリアのウィーン美術アカデミーで哲学の博士号を取得した経歴の持ち主である。
今回は1章~5章。
第1章 台座の上の戦車
解消されずにずるずると続く内戦のあり方として「ステイシス(stasis)」に着目している。
ステイシスとは「停滞」を意味し、内戦はその期限や境界はあやふやであることによって、結果的に利益をもたらすことにつながるとヒトは指摘している。
ステイシスは、終わりなき戦争と私有化/民営化を背景に持つ、時間の再帰的な収束現象だ。美術館は過去を現在へと漏出させ、歴史はその際に深刻な傷を負った上、領域を狭められる。
20世紀末はグローバリゼーションが置かれた状況を打破するための最適解として位置付けられていた。これを担っていたのが、インターネットである。
このときステイシスは「コスモポリタン」の「万有(コスモ)」を「企業的なもの」へと、ポリスをプロパティへと変換する機序を担うという。
美術館や博物館は美術品を収蔵することによって、歴史(過去)を蒐集してきた。しかし、課せられるべきは過去よりも未来へ、さらにいえば未来を創り出すことが求められているはずである。それを担っているのが、美術館に作品を「停滞」させるのではなく、「デューティー・フリー」(非課税)によって作品に流動性を与えるべきである、と読み取った。
第2章 いかに人々の生を奪うか
映像における「ワイプ効果」に着目する。
【ワイプ効果】
画面を横切るように別のイメージやシーンが挿入される、映像効果のこと
ワイプ効果によって、それまでの映像を強制的に断絶させることが可能である。ヒトはこのことについて『ワイプによる抹消が意味するのは、退去、または正確には「交換/更迭」(リプレイスメント)である』と述べている。
たとえば、ブルドーザーで建物を破壊する映像を逆再生させることによって、ブルドーザーはその建物を「建設」しているかのような印象を与えることができる。まさに「創造的破壊」(ディスラプション)による特異点のひとつを表した例として取り上げられている。
「創造的破壊」という用語は社会学者のヴェルナー・ゾンバルトの著書「戦争と資本主義」によって提示された概念である。
ヒトはこの概念は現代において「創造的壊乱」にとって代わったのではないか、と指摘している。
創造的破壊では、かつてのシステムやプロセスなどを「破壊」することによって、新たなモデルなどが「創造」されてきた。しかし現代においては、オートメーション化やAIによる自動化が進んだ結果、失業率の増加、インターネットのクロージング化、それに伴う独裁制的な支配などなど。
壊乱的イノベーションによってもたらされるものとして、以下のものを挙げている。
・労働需要の逓減
・大規模な監視
・アルゴリズムの混乱による社会的格差の拡大
壊乱的デザインによって進む社会の流れを回避するためには、その逆の方向に進むべきであるとし、ヒトは『退縮=(地方自治体への)権限移譲(devolution)』を挙げている。
つまり、中央集権主義(一極集中)的な考え方から、地方分権的な権利分散型なシステムにすべきではなかろうか、というものである。
なすべきは、分散し権限を与える=上層が下層にチャンスを与える、と捉えることもできようか。チャンスをものにできるかどうかは、その人次第である。
とはいえ、チャンスは与えられるものではなく、自ら掴みにいくものである、とも思う。やるかやらないかは、結局のところその人自身に委ねられており、固定的知能観よりも拡張的知能観を磨く必要があるのかもしれない。
第3章 容赦なき現存性の戦慄
アーティストは美術界に「居ること」に依存している。そしてまた、作品制作だけではなく、展示会場などの場に「居ること」が現代ではより求められている。
とりわけ、こうした「居ること」に対して費用対効果は勘定されてはいない。講演やワークショップなどとは異なり「居ること」が当然であり、そこには基本的に費用はかけられてはいない。
アーティストもまた、資本主義社会において制作をおこなう「労働者」のひとりである。しかし、世間一般的にはアーティストは「労働者」とは認識されておらず、作品を制作する「自由人」としてみられることが一般的である。
確かに過去の偉大な芸術家たちは社会性に乏しく、良くも悪くも浮世離れした生き方の代名詞であったであろう。しかし、現代において、アーティストにはより社会性が求められている。
アーティスト業で生計を立てることはままならず、アルバイトや教員、一般業などに携わりながら制作を続けているのが圧倒的大多数である。そして目立った成功を得られないことに失望し、いつしか辞めてしまうのだ。
アーティストの素養のひとつが、「継続的に制作し、発表し続けられる」ことが挙げられる。継続できることが、才能のひとつでもあるといっても過言ではない、と私は思っている。
第4章 プロキシの政治
コンピュテーショナル・フォトグラフィ。
後からピントを調整したり、ブレなどを除去したり。保存された画像からアルゴリズム的に予測し自動で撮影したり。
さらには、「レンズレスカメラ」の研究も進められている(実現は、するかも)。
コンピュテーショナル・フォトグラフィはまた、外部干渉(とりわけインターネット)によって自動で修整、トリミングなど、ありとあらゆる機能を包含しつつある。
Facebookでは、世界各地の下請け労働者によって画像判定(掲載の可否)のフィルタリング作業を行っているという。
かつてGoogleのAIによる画像判定で、黒人をゴリラと分類した、通称「ゴリラ問題」は記憶の新しい。
SNSなどでしばしば問題に上がるのが、性的表現の排除である。排除するためにさまざまなアルゴリズムが試されては、誤判定に悩まされきた。
プロキシ。インターネット関連用語で、私にはお馴染みの言葉であり、端的にいえば「代理」を意味する。
プロキシ政治、すなわち代理戦争においてヒトは「立場を公言すること(テイク・ア・スタンド)とスタンド・イン=代役の起用との間に生起するもの」であると指摘している。
第5章 茫洋たるデータ
「アポフェニア」
ランダム・データに一定のパターンを知覚することを指す。表象したイメージに、何かしらの規則性(パターン)を見出そうと無意識のうちに行う状態をあらわす。
グーグルのリサーチラボでは、ノイズのみからパターンやイメージを生成する行為を「インセプショニズム」もしくは「ディープ・ドリーミング」と呼んでいる。これらによって生成されたイメージは、一見すると不気味さを覚えるが、これはわれわれ人間のもつ美学的な尺度でこうした物事を判断しているからにほかならない。
ノイズのなかから必要と思われるデータを抽出し、可視化させること。「パターンとは投影であって、現実そのものではなかった」と指摘しているように、パターンとしてわれわれが認識しているものとは、現象や状況に一致するように「投影」されているものである。
科学とは実世界の現象と適合するよう数式化・定式化されたものである。式が現実をあらわしているのではない。現実に合うように数値化(シミュレーション)されているのである。
アルゴリズムもまた、事象や現象にフィットするようパラメータを調整し、「いい感じ」の結果を返している。「マジックナンバー」と呼ばれるように、ある数字を変数として入れておけば、理想とする解が得られてしまうことだってあり得る。
いいなと思ったら応援しよう!
