【書籍】美術の非物質化(美術手帖1973年7月号)
コンセプチュアル・アートにおいて、ルーシー・R・リパードの非物質化というのがひとつのキーワードとなる。
Webで調べたりはしたことはあるが、いつもしっくりこない部分があった。パフォーマンス・アートのようなものなら物質は存在しないため、まだわからなくはないのだが、作品として「物質」が存在しているにも関わらず、「非物質化」とは何なのだ、と。物質としての作品から逃れる「脱物質化」ならわかるが、「非」物質:物質ではない、とはどいうことなのか、と。
先日、大学院の先輩が当該書籍を挙げられていたので、ヤフオクでみてみたところ、見事ヒット!(邦訳)
という訳で、美術手帖1973年7月号に掲載されていた、ルーシー・R・リパード『美術の非物質化』を読み進めながら、「非物質化」を読み解いてみる。
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コンセプチュアル・アートが盛り始めた1960年代。
オブジェが単に、結果としての産物にすぎないものになってくると、多くの作家たちは、作品の物理的な展開には関心を失う。
-中略-
オブジェとしての美術の、底知れぬ非物質化をよびおこしているように思われる。
思考プロセスを重視されるようになったことで、それまでの20年間における美術の特徴であった制作プロセスそのものが意味をなさなくなっていった。
1960年代における視覚芸術は、①概念としての美術と②行為としての美術、のふたつの道に別れようとしている分岐点にあり、最終的にひとつの場所へ向かっていく(目的地はこの時点では明記されていない)。
①の場合には、情感が概念に変質させられているので、物質は否定される。②の場合には、物質はエネルギーと時間・運動に変えられている。
①の場合、情感が概念へと変わったからといって、物質を否定することになり得るのであろうか。プロセスがかわろうとも作品を制作している以上、物質であることに変わりはないと思うのだが。
②の場合、パフォーマンスなどにおいて物質?をエネルギーと時間・運動に変わっている、というのはまだなんとなく理解はできる(ここでの物質の意味もよくわからないが...)。
原文(英語)を読んだ訳ではないので、憶測でしかないのだが。原文のタイトル「Dematerialization of Art」において、De-:非+materialization:物質化、と邦訳されてはいるが、「materialization:具現化」の意でもある。ともすれば、「非具現化」とすべきでなかったのではなかろうか。
具現化:目標や理想を具体的に実現すること。
※大辞林 大三版より引用
目標や理想、すなわちそれまでの知性的・情感的・直感的といったアーティスト自身の思考を作品として提示していたものが、頭脳プレイにシフトしたことによって提示するものはコンセプトとなった。作品はコンセプトの補佐的な役割となり、かならずしもコンセプトを具体的な作品として提示しているとは限らない。
②の行為としての美術、パフォーマンスアートなどの場合、具現化=形を与える、という訳ではなく、「行為」と述べていることからも、非具現化としての理解もできる。
視覚芸術上の実に多くの実験にとって「時間」の要素が焦点となっているにしたがい、ダンスやフィルム、音楽の位相は、絵画や彫刻の格好の付属物となり、かたや絵画や彫刻も、思いがけないぐあいに、パフォーミング・アートに吸収されていくようにみえるのである。
パフォーミング・アートがアートとしての地位を確立し始めた当時にとって、それまでの絵画や彫刻といった美術作品もまた、新たなコンセプチュアル・アートによって置き去りにされることではなく、パフォーミング・アートの一部と捉えることによって、生き長らえることができる、といった解釈でよいだろうか。美術が視覚芸術にも含まれて当然でしょ、といった具合に。
さらにリパードは、ジョゼフ・シリンガーが『芸術の数学的基礎』で展開したゾーンを挙げている。それらのゾーンが順次、速度を上げて、次のゾーンへ移行していく、というものである。
1. 前美学的・生物学的な模倣の段階
2. 伝統的美学、すなわち魔術的・儀式的・宗教的な段階
3. 主情的美学の段階、すなわち情感の芸術表現、自己表現、芸術のための芸術
4. 理性的美学の段階。経験論、実験的な芸術、新しい芸術などが特徴
5. 完全な美術品の制作・分配・消費を可能にする科学的な、美学以後の芸術。芸術形式と材料の融合。
→最終的には「芸術の解体」、その「観念の抽象化と解放」
1960年代当時は4と5の間あたりと述べているが、現代は5に近いのではなかろうか。目新しさよりも過去の概念を現代的に解釈して、作品として提示するような。
決定論者的な予定表にしたがって他の芸術に対して弁ずるこの自意識的・自己批評的な芸術に、最後の「美術以後」の部分がとって代わる。制約というよりもむしろ解放を伴うこのより新しい芸術は、一種不可思議なユートピア思想をあらわしているのだが、(中略)。ほとんどのユートピアと同じく、そこに具体的な表現はないのである。
非物質化された美術は、だんだんと非視覚的な面を濃厚にしていくというところでのみ、美術以後の美術である。数式や定則、あるいは解法の美しさについて、(中略)、原理的な美学はなお美学である。
ここでも非物質化よりも「非具現化」の方がしっくりくるような気がしてならない。
数学の美しさがもたらすもの。先日読んだ福岡伸一『芸術と科学のあいだ』に記載されていた一文がしっくりくる。
大学において、生物は化学に、化学は物理に、物理は数学に、数学は哲学になる。
まさにその通りであって、物理の講義では数学が必要不可欠であったし、数学科の講義はまさに哲学といっていいほど、定義の証明をしていた。神が作ったともいうべき数学の定義は非常に美しいと感じている。
芸術作品がことばのように、観念を伝えるサインであるとき、それ自体は「もの」ではなく、もののシンボルとなり表象となる。そのような作品は、(中略)、むしろメディウムなのである。
「むしろメディウム」=むしろ物質となっている、ということになり、「美術の非物質化」の整合性が取れなくなる。作品はただの、概念を伝えるためだけの「もの」となってしまったのだから。ラウシェンバーグなどを挙げているが、作品=物質(もの)そのものは存在しているし。
オブジェとしての美術から観念としての美術に力点が移った結果、作品は当面の諸制約-経済的-技術的な-から自由になった。
ここで取り上げた作品たちはすべて、なにかを具体的に表現するためにこそ視覚芸術に魅かれたのである。かれらは、その性格がきわめて視覚的な作品-伝統的な絵画や彫刻-をつくることから出発したのだった。そしてかれらは、いつでもそこへ帰っていけるのである。
歴史を通じて、美術は単になにかを描出するだけでなく、観念-宗教的、政治的、神秘的な-の道具となってきた。そのオブジェは信じて疑われなかったのである。
同時代におけるフォーマリズムでは視覚の純粋性による評価であり、作品の内容や制作意図といったものを蔑ろにした。その対極にあるコンセプチュアル・アートでは、視覚の純粋性を引き継ぎながらも、あくまで概念(アイデア・コンセプト)を提示することが目的である。
タイトルに戻ろう。「美術の非物質化」。物質化に非ず。物質=オブジェが単なる副産物となった。概念が主流となった当時において、視覚芸術における美術(絵画や彫刻)は、それまでの美術作品に込められていた観念から脱却し、概念を表現するために美術作品が作られるようになった。
オブジェを否定的であったり、コンセプチュアル・アートに、「行為としての芸術」を加えているため、「物質から離れた=非物質」として元々読まれている節を感じたが、実際に読んでみると、非物質化というよりも「美術の非具現化」として読み進めた方が内容としてはしっくりきた。
このことから、「美術の非具現化」といった方がリパードが書いた内容と合致する、と思う。