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【考察】AIによる「写真」

世界最高峰、かどうかはさておき、Sony World Photography AwardsでAIによって生成されたイメージが入賞したことが何かと話題になっている。

なぜこの作品が問題視されているのかというと、『写真=撮影によって獲得するイメージ(画像)』という、ステレオタイプな「写真」の概念から逸脱しているとみなされているからにほかならない。つまり、自分で撮影したものしか「写真」として扱われていないのである。

銀塩写真からデジタル写真へと移行したとき、表面的には撮影のシステムが化学反応からデジタル処理へと移行したことで、写真は写真のままでデジタル化した、だけではない。根本的な生成プロセスが全く別物であるにも関わらず、その見た目(カメラ)が変わらなかったことで、デジタル写真は銀塩写真の延長線上に位置付けられてしまったのである。

さらには、それが写真として扱われる際の問題、すなわち「何が写っているのか」という表層のイメージの問題から、写真界隈の人間は逃れることはできない。

写真は真実を写すものではないし、撮影者の思いを写し出すことができる技術ではない。カメラなどを利用することによって実世界の情報を画像的な情報に変換しているだけにすぎないのである。

ボリス氏は「AIに対しての理解が甘い写真業界に一石を投じたかった」と述べながらも、受賞を拒否したのは、あくまでAIによって生成された画像は「写真」ではない、すなわちボリス氏はアーティストではなく、あくまで「写真家」であるのだ。


ちょうど1年前、私は大学院を修了し、修士論文として執筆した文章を、AmazonKDPとして販売を開始した。

現代において「写真」とは『なんらかの方法によってデバイスが認識可能な画像データが生成できさえすれば、それが「写真」になる』という内容である。

画像データを生成するためのプロセスはなにも撮影だけに限ったことではない。生成する方法はAIであっても構わない。生成された大量の画像の中からテーマに適した画像を選択することが現時点において現代アートのアーティストの役割であるといえよう。その選択の基準が「写真的」かどうかは、関係ない。


所詮、現実世界は各人がイメージした仮想現実でしかない。リアリティ(実世界)は各人の脳内にしか存在せず、共通認識によって特定のものに「名詞」が与えられているにすぎないのである。私がみたリンゴとあなたがみたリンゴは、固有名詞としての「リンゴ」であるのみで、決して同一な「リンゴ」なのではない。

いってしまえば、イメージに何の意味もない。その画像に意味を見出そうとするのは、他ならぬ鑑賞者自身なのである。


撮影によって生成される画像もまた、意味を持たない情報にしかすぎない。その無意味な情報に意味を与えること、言い換えれば脳内の実世界(リアリティ)を現実世界(バーチャルリアリティ)で表象させることができるのが、写真家の特権であるのかもしれない。

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