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【書籍】シーシュポスの神話

フランスの小説家、劇作家、哲学者アルベール・カミュによる本書。

本書の核となるのは「不条理」である。カミュは不条理を以下のように説明する。

この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対時したままである状態についてなのだ。(p42)
不条理は人間と世界と、この両者に属する。今のところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。(p42)

この世は不条理で成り立っている。そして、この世で「生きる」方法を不条理によって見出そうとしているのである。

以前は、人生を生きるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。ところがありここでは反対に、人生へ意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思えるのである。(p95)
不条理のために希望と未来とを剥奪されるということが、人間の自由な行動の可能性の増大を意味するのだ。(p100)
不条理な現実世界においては、ある観念なりある人生なりの価値は、その不毛性において測られるのである。(p123)

人間は、この世に生を受けたその瞬間から、「死」が訪れることが決まっている。それが、長いか短いかだけの差異であって、いわば「運」的な要素をはらんでいる。

人は「人生とはなにか」ということについて答えを求めて生きてはいるが、そこに答えはない。そもそもこの不条理な世界において、人生とは意味がないものであるということを受け入れることによって、「生きる」ことの真の意味を獲得することにつながるのだ。

さらにその人生の価値とは不毛性ー何の進歩も結果も得られなかったことーによって測られる。つまり、なにを成したかではなく、なにもしなかったことで、その人の人生の価値が決定付けられるのである。

大切なのは、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認して、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。(pp166-167)
記述する、これが不条理な思考の最後の野望である。(p168)
芸術作品はそれ自体不条理な現象であり、重要なのは芸術作品における記述、ただそれだけだ。(p169)

キリスト教的には天国へ、仏教的には極楽浄土へ。死してなお、理想の世界へと進むために、現世で良い行いや徳を積む。それは「死後」のために生きるという、不条理の最たる状況を生み出している。


まずは不条理であることを理解し、受け入れること。生きる意味や人生とはなにかを問おうとし、その答えを探して彷徨うが、そもそもそこには意味などない。「生きる」ことがすべてなのである。

カミュは死ぬことをゴールとしている訳ではない。自由に「生きる」ことを不条理によって提示しているのだ。

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本書のタイトルでもある「シーシュポス」。神々の秘密を漏らした、軽率な振る舞いをしたなどとして、神々は彼に刑罰を与えた。その罰とは休むことなく巨大な岩を転がし、山頂まで運ぶというものであった。

神々は無利益で希望のない刑罰を与えたと思っていたが、シーシュポスは岩を山頂にさえ運びさえすれば、あとは自然に岩が落下していくことを「知っていた」のである。

不条理な英雄として扱われる「シーシュポスの神話」ではあるが、最も悲劇的なことは、「主人公が意識に目覚めているからだ(p123)」とカミュは指摘する。これは、労働者の日常とリンクする。日々、同じ仕事に就き、1日を終える。

シーシュポスが岩を山頂まで運び終わり、岩が平地へと転がっていく様を見つめる。そして、その岩を再び山頂へと運ぶために山を降りる。このとき、達成感と絶望感とが錯綜する。

岩の所有者はシーシュポスにあり、終わることのない運命を受け入れる。しかし、シーシュポスはすべてを受け入れ、「神々を否定し、岩を持ち上げることよりも高次の忠実さを人々に教えている」のである。

頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。(p217)

人生には意味はなくとも、生きる意味が、ここにはある。

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