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現代アートを楽しみたい #00

先日、合計で約3万5000字におよぶ『NewJeans論』を書きました。

この記事を書こうと思った動機は、「NewJeansはアートなのでは?」という個人的な問いからでした。

もちろん、音楽業界で表舞台に立つ人間は、何かを表現するという意味で全員アーティストであり、その名の通り何かしらのアートをやっています。しかしそういう意味ではなくて、いわゆる「芸術性」の面からNewJeansを読み解いてみたいと思いました。

今年4月の事務所騒動があって以降、プロデューサーであるミン・ヒジンが思い描いていたNewJeansのコンセプトというのが、本人の口から明かされることが増えました。アートとは直接関係のない話も多数してきましたが、一貫して彼女が主張してきたのは「アートとビジネス」の関係。

言い換えれば、「アートと資本主義」です。

アートと、資本主義と、それから社会と。NewJeansの本質は、こういったキーワードにあることが、自分の中でだんだん腑に落ちてきました。

そう思い立ってから、『NewJeans論』の下調べとして、漠然とこれまで頭の中にあったイメージやアイデアを具象化し、検証し、言語化する作業に入りました。

そこで出会ったのが、村上隆の存在です。「Supernatural / Right Now」でNewJeansの作品/マーチを手がけた、言わずと知れた日本を代表するアーティスト。

村上隆とNewJeansのコラボが発表された際、「日本デビューだからわかりやすい村上隆に声をかけたのか」くらいにしか思っていませんでした。一方で、あのミン・ヒジンが「有名だから」という理由だけで他アーティストにコラボを依頼するはずがないとも思っていました。

そんな疑いを抱えながら村上隆について調べていくと、「スーパーフラット」という概念を発見。アートとサブカルチャーの接合を図る運動のようです。

アートについては微塵の知識もない私ですが、「NewJeans=スーパーフラット」という仮説を立てたところから、『NewJeans論』の草稿を書き始めました。

さらには、ルイ・ヴィトンともコラボした村上隆は、どうやら資本主義とアートの関係にも自覚的で、「現代アート」と呼ばれるものをやっているらしいと。「マルセル・デュシャン」「アンディ・ウォーホル」など、どうやら重要らしいアーティスト名にも触れました。

これまでオシャレなイラストとしか思っていなかったあの「キャンベルのスープ缶」は、現代アートの文脈では大変重層的な批評性があることを知り、いい機会だし現代アートに足を踏み入れてみようと思いました。




前置きが長くなりましたが、音楽、映画に続く三つ目の趣味?娯楽?人生のツール?として、現代アートを嗜んでいく様子をエッセイにしてみようかな、というのが今回の記事です。

現代アートについての解説記事でもなんでもありません。ただの一人の大学生の、娯楽備忘録です。

現代アートを勉強してみようと思い立ってから、現代アートを解説する動画数本と、書籍数冊を読んでみました。

完全にポピュラー音楽脳の私からすると、デュシャンとウォーホルの巨匠ぶりはすごいなと、純粋に思います。

音楽で言えば誰でしょう。「デュシャン=ブルース(特定アーティストでなくてすみません)」、「ウォーホル=ビートルズ」とかになるんでしょうかね。

でもこの仮説は、私自身でもいくつもの反論ができてしまいます。ビートルズは偉大だったとはいえ、ポピュラー音楽は基本的に歴史の「連続性」の中で発展してきたジャンルでしょうから。

デュシャンとウォーホルほど、時代をひっくり返してしまうような突飛性があったと言われれば、それは微妙な気がします。この2人の評価について、現代アート界で一定のコンセンサスが取れていることが、非常に面白く感じます。

現代アートの概要の概要くらいしか触れていない私ですが、いくつか代表作家に触れた中で「この人の作品好きかも」と思ったのが、ピート・モンドリアンです。

https://nomadart.co/en/blogs/blog/10-curiosidades-sobre-la-vida-y-la-obra-de-piet-mondrian

理由は単純で、音楽にしても映画にしても、私が好きな作品は大抵二つの要素のどちらかをもっています。それは、「ミニマルさ」「バランスの良さ」です。

特に、良い「ミニマル」な作品の場合、必要条件として「バランスの良さ」も自動的に含まれます。ただ引き算をしただけの作品は、ただひもじいだけです。

(余談ですが、カルバン・クラインは「ミニマリズム」をコンセプトにしているそうですが、あのデザインはただ引き算をしただけに思えて美学を感じられないので苦手です)

ピート・モンドリアンの「冷たい抽象画」は、その背景を少し知るだけで、一気に面白い作品のように感じました。

「本質」とは何か。そもそも「本質」などあるのか。それを考えることに「意味」はあるのか。私が音楽や映画に触れる際にいつも立ちはだかるそういった葛藤を、ピート・モンドリアンは絵画一枚で呼び起こしてくれる気がします。

加えて、作品として上下左右が存在しない(存在はするでしょうけど、素人目には上下左右の概念を排しても成立する作品のように思えます)のも面白い。

私は、音楽は録音芸術であると同時に、空間芸術だとも思っています。リバーブやエコーなどのエフェクトはまさに「空間系」と呼ばれますし、音楽を聴いて前後左右のイメージが頭に浮かぶのは自然なことです。

加えて、ほぼ全てのポピュラー音楽、特にダンスミュージックは「反復」を基本とするわけで、テクノやハウスは同じ小節の繰り返し、つまり同じ時間が繰り返される感覚がします。

映画に関して言えば、私たちZ世代はクリストファー・ノーランの諸作品が映画の原体験という人が多いでしょう。これは私だけかもしれませんが、『インターステラー』をはじめとした相対性理論を扱った彼の作品性が刷り込まれた結果、「ポップアートと時空間」という概念は常に作品鑑賞の際に頭の片隅にある気がします。

『インターステラー』の4次元/5次元の幾何学模様は、まさにピート・モンドリアンではないですか。

彼の作品は、そういったふうに時空間の認識を問い直してくれる気がします。芸術初心者の私の目には「冷たい抽象画」は、テクノであり、『インターステラー』のように見えるわけです。



思ったより長くなりました。

こんな感じで、今後も、興味のある範囲でアートに触れてみたいと思います。気が向いたら、#01 の記事を書いてみますね。 



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Masaaki Ito
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