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四月の雨は濡れない

もう高校生になるらしい。
なんど同じことを自覚しただろう

皆は全部忘れちゃうからわたしが、
いつもみたいに。

シャッフル再生から始まるバス停の反射光
部活のない日の放課後
覚えていても仕方がないね。


ーーー
カタチを持たない所にかえりたい。
書き手は存在してはいけないから、
三人称視点シューティングみたいに生きているように感じる。



歩いた道は私の物になればいいと思っている
カーブミラーに景色を閉じ込めたいと思っている
ずっとこの日々が続けばいいと思っている
ずっとこの日々は続かないんだと思っている

医者にこの日々は続かないと宣告をされた。
でも私はもうとっくに薬は必要ないことを知っている。


MV通りに目を瞑ってみた。
電車に映る夜は、存在していないみたいだった。
非常口のランプが時々点灯しているだけの、
まっくらな空間を飛ぶ京王線だった。


心臓のディティール、脳の解像度
いつか階段から転げ落ちてしまいそうだ。
不注意か故意か、完全犯罪を考えるみたいに、
いつからか、人を悲しませない死に方を考えるようになった。
私の死んだ世界で、初めて自分に値が付けばいいと思っていた。エンドロールは本編ではなかった。
死は円満で完了だった。
なので、とりあえず、私はそれを、救済や退路にすることをやめてみた。


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4/13
その日は羊毛を梳かしたみたいな雲を浮かべていた。
時々空はすごく遠い
夜みたいな曲は飛ばして、
15才と高校一年生を使い分けた。
でも、
心臓を宙に浮かべられるのは夜だけだった。

やわらかい春の放課後の、
裏というか、
すぐ、傍で
縫い目みたいな不安と並走している。


接続詞が意味を成さない私の言語は、いつまでも私の共通言語で居てくれるだろうか。国語の教師が読み解けない文章をいつまで「きたない」と大事にできるだろうか。
人並みの多忙を満喫している。鉛筆みたいに擦っていたら鈍くなるから、忙しいくらいが丁度いいんだと思う。
まだまだ鮮やかな黒鉛の中で、私は「頑張れる」ようになってしまった。きっと今の私は「普通」で、
人の地獄で無責任にエールを送る立場になってしまうんだろう。
人のきたなさや悲しさの美しさを分からなくなるのは怖かった。「普通」になった弊害で私は私を削り落として健康でつまらない人間にしてしまったのかもしれない。
生々しくて痛々しくて惨めで我儘で意地汚く、言い訳じみた人の傷を舐めあっていたかった


3週目を迎えた先、ほぼ真新しい生活の中で、
幸せを抱く人と、不幸を抱える人の2つに極自然と別れていく。

1年前の私は確実に幸せで、それを不幸のベールで纏っては毎晩泣いていた。それが中学生の私の理屈で染みた、許される為の本能だった。

そして私は今、確実に不幸なのだろう。
青春、通院、深夜、言葉の一端、
全てをかけてようやく手に入れた不幸を、私は踏みつけも潰しもせず、底の厚いブーツで隣や後ろを歩いて、時々黙って、基本は笑っていくのでしょう。

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