2022.10.28
そのとき私は一時帰国して成田空港にいた。
「今日は一杯くらいいいよね!」
久しぶりの生中。冷えたジョッキを手にする。分厚いガラスの飲み口に唇が触れると、黄金色の液体が懐かしそうに暖簾をくぐりながら流れ込んでくる。いらっしゃい!待ってたよ。麦の甘み。白い泡と混ざって喉元を過ぎていく。
「はーーーーっ。。。」
うまい。
前よりもちゃんとビールをありがたく味わえている自分がいる。
***
目が覚めると、私はマグロになっていた。
ツンと鼻にくる生臭さとか、ここ最近剃ってないはずなのにやたらツルッツルしていて滑りのある腕の感触とか、じかの感覚に迫ってくるものも確かにあった。けど、そういう証拠以上にいわゆる第六感的なものが働いて、「私は今マグロなんだ」と直感的に悟っていた。実は数日前から薄々マグロになる予感がしていたんだよな。私はスッとその事実を受け入れた。
「行かないといけない。」
マグロになったとわかれば、すぐにでも確かめないといけないことがある。
シャキッとスイッチが入った頭と共に私はベッドを抜け出しシャワーを浴びて髪を乾かす。お気に入りのチャイナ柄のワンピースに身を包んで青のラメを雑に瞼にのせる。身支度完了。黒パンプスを突っかけて急いでエレベーターを呼ぶ。
鏡で全身チェックする余裕すらない。
マンションを飛び出し駅に向かって走る走る。私は止まれない。
気づけば店のカウンターに座っていた。
以前友達に連れてきてもらった、ウイスキー好きの大将がやってる鮨屋。
大将はマグロになった私をみても何も言わず、ただそっと生中を出してくれた。
まずはジョッキを空にして、突き出しから順番に味わう。箸を休めることはもう私には許されないのだ。
喉の奥から苦い液体が緊張と共に逆流してくるから日本酒に口をつける。
純米吟醸は相変わらずおいしい。香りがいい。はあ。
そして、ついにその時が来た。
おもむろに出されたそいつと対峙し、薄紅のきらめきをまずは目で楽しむ。
水を飲んで一呼吸。
私はそいつを醤油につけ口に運んだ。
柔らかい身を咀嚼する。脂の乗った独特の甘さがやってくる。
「おいしい。」
つい口からポロッと溢れてしまったそんな言葉を追っかけるように涙が頬を走っていった。
そう、紛れもなく、美味しかったのだ。
今まで通り、美味しかったのだ。
美味しく、感じてしまったのだ。
そこからはもう何も言えず、ただただ歯と舌を動かしていた。
涙は頬の上でマラソンを続けていた。
日本酒は途切れることなくグラスに注がれ、張り詰め、溢れ、枡へこぼれた。
何十年もののバカ高いウイスキーの蘊蓄を前に語ってくれた大将は、今日は一言も発さずにただただこちらを興味深そうに見つめていた。
私はひたすら、ひたすら咀嚼する。
***
目が覚めると、そこはレクチャーホールだった。
どうやら私は哲学の授業を受けていたらしい。先生はデカルトの話をしている。Cogito erugo sum---我思う故に我あり。
「もしこの世界が夢の世界だったとしたら?ここで寝ている身体と夢の中の身体って全く同じではないよね?じゃあ私ってなんなの?」
いくらわかりやすく説明されてもよくわからないものはよくわからないし、共感できないものは共感できない。ずっと苦しみながらも考えることが気持ちよかったんだろうなあとか思ってしまう。いくらど天才だったとしても快楽がないとこんなことやってられんだろう。
結論、デカルトがもし今生きていたらきっとド級のMに違いない。
ちなみに私の分析によるとソクラテスは多分S。
異論があれば何なりとどうぞ。