大事に握りしめてきたもの
小学生の時、おでこのにきびやくせ毛を同級生にからかわれた。
中学校の入学式の日、見知らぬ男子に「死ね!」といきなり言われた。
親が選んだ服を着ているのが恥ずかしかった。
好きな人に思いを伝えられなかった。
部活に入りたいと親に言えなかった。
大学受験で失敗したこと。
大学で心からの友達ができなかったこと。
アイドルや先生に憧れて普通の恋愛をしてこなかったこと。
自分の若さにしか自信がなく、この人なら大丈夫かも、と歳が10以上離れた人を好きになろうとして、傷ついたこと。
職場の同僚がチャットで送っていた私の悪口。
親や家族の会話に馴染めないこと。
混雑した電車で見知らぬ人から向けられた悪意。
恋人から送られた傷つく言葉。
私は自分の身に降りかかった不幸をずっと握りしめてきたような気がする。
普通の人なら時間の経過とともに受け流せるのかもしれないことなのに。
相手はとっくに忘れているはずなのに。
握りしめてきたいやなことが、いつの間にか心に繋がれた錘になった。
いやな目に遭っても、「たまたま」「今回限り」「運が悪かった」あるいは「状況のせい」「他人のせい」にするとか、何か教訓を得られたと思って受け流せばいいと頭ではわかっている。
でもそれがうまくできない。
たとえば街中でぶつかられたり足を踏まれたりしたとき、そんな風に思うことができない。
“ぶつかったり足を踏んだりしても構わない存在として他人に思われ、実際にそういう扱いを受けた自分”が心と体に重くのしかかる。
目には見えないけれど消えない染みや汚れが自分についてしまったような感覚になる。
いやな目に遭ったことを大事に握りしめてきたからか、汚れを積み重ねて色濃く纏った自分のことが醜く思えて、また何かが起きるたびに消えない汚れが増えていくように感じる。
ひとつひとつをちょっとしたことだとは思えなくて、一生の傷を負ったような気持ちになる。
これを単なる考えすぎで片づけるのは私にとって難しい。
新たな傷や汚れが増すことが怖くて臆病になって、傷つけてくるかもしれない他人を信じられないし、自分自身を醜いと思う気持ちが拭えない。
わかっているのに。
私のことを真に傷つけたり汚すことができる人なんていなくて、自ら傷つくから誰かが自分を傷つけたということになること。
いつか、私のことは誰も傷つけることなんてできないし、私は傷ついても汚れてもいないきれいな存在だと心から思えたらいいのにな。
だから神社が好きなのかも。
神社という清らかな空間に身を置いて、手水舎で身を清めて、純粋な気持ちでお詣りして、お祓いをしてもらい、御朱印や御守りをいただいて家に持ち帰れる。
神社にお詣りした後は、暫く自分の心身が清められたような気持ちになれるから。
また何かがあると元通りの感覚になっちゃうけど。
神社のことを考えていたら、目に見えない穢れみたいな昔からの日本人の概念と私の感覚って少し似通う部分のあるのかなと思った。
でも、妊娠・出産や、避けることのできない殺生とか、そういうことも穢れと考えるのは息苦しいなと思ったりする。
本来神秘的なはずの妊娠・出産やそれに付随する人体の生理現象を穢れてるとして、皆生まれながらにして穢れた存在 みたいに考えるのってどうなの…。
そこに抵抗を感じるのも、生まれながらにして純粋で曇りない存在でありたい みたいな願望の現れなのかな。
なんだか、そんな風に行き着くところまで考えていたら、こないだ通勤中の電車で嫌な目に遭ったことはだいぶどうでもよくなってきた。笑
私にとって、考えることや書くことは何よりも身近な赦しとかお清めみたいな癒しの行為なのかも。
考えがどこかの岸に流れ着くまで。
…ほんとはもっと前に書いたけど、これが最初のnoteになるのは導入が暗すぎる気がして寝かせてました💭
2023/12/01