「自分を大切にする」って ①
私の一番の脳内プロジェクトとして取り組んでいる、「自分を大切にする」キャンペーン。
「自分を大切にする」って今や陳腐な表現だけど、実際に本気でやってみようとすると難しい。
疲れた身体を労わって温泉に浸かるとかマッサージを受けるとか、そんなことならわかりやすいのに。
0が1になるような、そういったプラスの方向のことなら誰にでも簡単に思いつくだろうけど。
でも、本当の意味で「自分を大切にする」ってそういうことじゃないような気がする…。
表面上の労りではなく、真の意味で「自分を大切にする」ことについて突き詰めるのがこのキャンペーンの真髄となっている。
具体的なことは今後書いていきたいなと思うけど、まずはこれをすることにした背景や考え方のベースについて。。。
たとえば大切な配偶者や恋人が落ち込んでいるとき。
花やスイーツを買ってきてくれた!とか美味しいお店に連れて行ってくれた!というエピソードが「優しい」と言われたりするけど、ほんとにそうなのかな?と思ったり。
花やスイーツは嬉しいし、自分のことを考えてそれを買ってきてくれたという事実はありがたいものだけど、花やスイーツが実際に生じたマイナスを直接打ち消したり埋めてくれるものではない。
そういうもので満たされることもきっとあるけど、もしも落ち込んでいる理由が、親族の死や、仕事での大きな失敗や、病気だったら…
花やスイーツや食事は、ありがたいけど、今?と感じてしまうんじゃないか…と、私がその落ち込んでいる人の恋人だったら気になってしまう。
自分に対しても同じことが言えて、プラス方向の「大切にする」って、こういうパートナーの行為みたいなミスマッチ感があるように思う。
その理由は、何に落ち込んでいるかの本質を見るのではなく、「落ち込んでいる」というところにのみフォーカスして、気を逸らそうとしている感じがするからかも…。
本当に大切にしていたらその場しのぎではなく、何に落ち込んでいるのか理解しようとするし、それを癒したり解決したりするにはどうしたらいいのか考えるんじゃないかな、と思うから。
「大切にする」を突き詰めていくと、温泉とかそういう“ご褒美リスト”とは違った地味な内容になる感じがしている。
ここで例題(?)。
私の中でよく問題になっていたテーマのうちひとつ、
夜お風呂に入る VS 朝お風呂に入る
くたくたに疲れ切って帰ってきて、もう夜も遅いし明日も朝から仕事 の場合、夜お風呂に入るのと朝お風呂に入るの、どっちが自分を大切にしていると言えるのか!?
夜お風呂に入った方がリラックスできるし、身体をきれいにしてからお布団に入れて清潔だし、ただでさえ忙しい朝の時間に余裕を持てる。
本来なら、どう考えても夜に入浴した方がいいように思える。
でも、自分の心に素直になることが自分を大切にしているということになるなら、お風呂に入るのは超めんどくさいし、一刻も早く寝たいし、お風呂は朝入ればいいということになる。
こういうのは答えがないなといつも思う(いつもお風呂に入るかどうかで葛藤している…)。
本当に自分を大切にするとは…?と考えてみると、夜お風呂に入るべきということになりそうだけど、正論をいつも突き付けるよりも、時には自分の気持ち優先にして、敢えて白黒付けないことが正解なのかな、とぼんやり思う。
いつも正論を突き付けてくるパートナーがいたとしたらとっても息苦しいだろうし…。
自分自身を“自分にとっての大切な人”だととらえて、どっちがその大切な人にかけてあげたい言葉かな、してあげたいことかな?と考えるのはわたしがよくやる方法のひとつ。。
でも、お風呂に関しては基本的には夜に入ってしまった方がいいという結論が自分の中で出ていて、最近はなるべくお風呂を面倒に感じない工夫をして乗り切っている。
例えば、お風呂に入るまでの間にめんどくさいと感じる間を作らない。
食事⇒運動⇒入浴の間にひと呼吸も置かず、絶対に座らない。
入浴後も浴室にボディクリームを置いておき、身体を拭く前に流れ作業で塗れるようにしておくなど。
あとは、入浴にもいくつか段階を設けて、理想はトリートメントや除毛やいろいろなボディケアをすべて丁寧にすることだけど、身体をきれいにすることだけすれば良いと割り切ってとりあえず入るのもありにする。
スキンケアも、オールインワンだけでいいことにする。
それさえも無理な時は朝に回す。朝に回して寝坊したときのために、クレンジングシート・拭き取り化粧水・ドライシャンプー・ボディシートなどの最後の砦を用意しておく。
絶対に夜お風呂に入らなければならないと自分に厳しく課すより、お風呂に入れない自分の状況を想像してここまでするのが大切にすることなのでは…?と思ったり。
ちなみに。。。
彼がわたしのお家に来た時、夕飯を食べてお腹いっぱいになり、もう動きたくない~お風呂入りたくない~!となったわたしに対し、彼は…
入る/入らないではなく、
「一緒に入る?」という第三の選択肢(?)を提示してきたので、
一緒に入るのは恥ずかしくて嫌だったわたしは、速やかにお風呂に入ったのでした。。
そういうアプローチもありだよね(?)
けれど、こういう方法でもなかなか解決できないこともある。
それは、他者から大切にされなかったとき。
もっと言うと、他者から酷い扱いを受けたとき。
そういう時、どう対処することが自分を大切にしていることになるのか、正解が見出せなくて、最近の大きな悩みです。。
ある時、満員電車で、肘を押し付けてくる人がいた。
都内の主要路線の混みあった電車では、他人と密着しなくてはならないことがたびたびあるので、そこまでは仕方がない。
ただ、ぎゅうぎゅうの電車で、他人と身体がくっつくのが不快だからといって、前に立っている人に肘を押し付ける必要はあるのかな?
他人との間に少しでもスペースを空けたくて、自分の身体との間に腕を差し込むくらいならまだわかるけど、肘は明確に相手に対して攻撃性があるように思う。
満員電車では、周囲の人の体勢や距離感、荷物が当たっている等が気に食わないという理由で、わざと舌打ちする・足を踏む・肘を突き立てるなどといった行為に出る人を本当によく見かける。
先日も、電車で後ろ背中合わせに立っている私のことが気に食わなかったのか、降りる際に私の背中に思いきり肘鉄をしてきたおじさんがいた。
後日同じ時間・同じ車両でまたそのおじさんの前に立つことになり、私は最初その人だと気が付かなかったけど、私を覚えていたのか様子がおかしかったので、それを見て思い出した。今度は私がそのおじさんの方を向いていたからか、さすがにこちらを向いている相手には何もできなかったのか、何事もなく済んだけど…。
でも見ず知らずの人に対してあんなに明確に暴力的なことをしてくるそのおじさんのことを考えると怖くて、しかも私のことを覚えているのも気持ち悪くて、それから同じ時間の同じ車両に乗れなくなった。
その車両は比較的空いていて、乗り換えにも便利だったのにな…。
こういうことをされたとき、どうしたらいいかわからなくなる。
他人から明確に悪意を向けられる日常のシチュエーションは満員電車以外にはそう頻繁にないので例に挙げたけれど、他人の悪意や加害性がベースになっている時、または他人が自分のことを自らと同じく心を持つ存在として扱ってきていない時、自分を大切にすることのハードルが一気に上がってしまう気がする。
相手は悪意を行動に移すような人間だから、もしもこちらがやり返したり、抵抗を明確に示したりすれば、逆上してきてさらに酷い目に遭うかもしれない。
かといって、おとなしく我慢していれば、加害してもいいと思われて、更に行動がエスカレートするおそれもある。
満員の電車のような逃げ場のない空間でどうすればよかったのかわからない。
ものすごく嫌だったし、イライラしてしまったし、実行には移さなかったものの、声を出すべきかとか、自分も押し返そうかとか、足を踏んだらやめるのかとか、スマホのカメラを向けたらいいのかとか、相手に対して何をしようかあれこれ考えてしまった。
そして、そんなことを考えてしまった自分に罪悪感を覚えたことがつらかった。
自分にはもともと非がなかったはずなのに、こんなことを考えてしまったせいで、自分も相手と同類であるような、攻撃性や加害性がある人間であるような気持ちになってしまった。
こんな気持ちになるくらいなら、何も考えずただ痛みに耐えていた方がよかったのかな、と思った。
誰かから悪意を向けられた時、それを我慢して耐えることは本当に自分を大切にしてると言えるのかな。
結論が出なかった。こういうときどうしたらいいか、みんなどうするのか教えてください・・・。
恋人なら、どうするかな。
彼はいつも、混んでいる電車や路上で人や自転車が突っ込んでくるとき、さりげなく私をガードするようなしぐさをしてくれる。
というか、そもそも彼と一緒の時は、一人の時と比べて人混みにいても私に対して加害してくる人がぐっと減るんだけど。
一人で歩いている時のように、こちらをじろじろ不躾に見てくるような人もほとんどいない。
加害する人も、相手を選んでしているんだなとわかる。
それがわかるだけに悔しいし、尚更黙って我慢していることは自分を大切にできていないんじゃないかと思う。
以前は、一人でいるときでも、“私は彼の大切な人”という意識が、自分を守ってくれた。
何か不当な扱いを受けたとき、毅然として言い返したり、自然と自分を守る行動ができていたし、そのことに罪悪感を抱くことも少なかったように思う。
彼との距離が空いてしまった今、それができなくなってしまった。
“彼という大切な人の大切な人“という視点でしか、自分を大切に思えていなかったことに気づく。
きっと、ふつうの人は、そんな捻った考え方をしなくても、自然に自分のことを大切だと思えるんだろうな。
私に攻撃してきたおじさんも、自分なりに自分が大切だから電車で側にいた私に怒りを覚えてそれを行動に移したのかも。
私は傷つくだけで、抵抗することも自分の身体や心を守ることもできない。
自分は誰かの大切な人=自分は大切にされるべき人だということ。
その考えを、普通の人たちは子供のころから周囲の愛情を受け取ることで培ってきたんだろう。
私にはどうやらそれが欠如しているみたい。
そういう基本的な安心感や、陳腐な言葉だけれど自己肯定感みたいなものが身につかないまま大人になってしまった私こそ、自分を大切にすることに他者を介在させるべきでないんだと思う。
“私は彼の大切な人”という考え方は、偽の安心感で肯定感でしかない。
どんなに誠実で自分を想ってくれる人がいたとしても、他者である限り、その人がいなくなってしまう可能性は常にあるし、さまざまな事情で自分を大切に思ってくれなくなる恐れがある。
子供のころに親からそのベースを育ててもらうのが本来なのだとしても、大人になって親からそれを得ようとすることは、もはや恋人などの他人を通じて肯定感を得ようとすることと変わらないんじゃないかと思う。
それに、子供のころにそれを与えてくれなかった親から大人になってから貰うことはまず不可能だろう。
だとしたら、子供のころから基本的な安心感や自己肯定感を培ってこられなかった私のような人たちは、親からでも他人からでもなく、遅ればせながら自らそれを獲得していくしかない。
安心感や肯定感を持たない人は、たとえ自分を愛してくれる人が現れたとしてもそれを受け取る器がないから、相手の純粋な愛情でさえも打算や偽りなのではないかと感じ、歪めてしまう。
受け取ってもらえなかった愛情はやがて腐ってしまうだろうし、健全な自己肯定感を持っている人ならば、当然離れていくことになるだろう。
それは相手の愛情が偽りだったからではなく、相手を想えばこそ、受け取られない愛情を無理に与えようとすべきではないと当然に思うから。
それで離れていく相手に対しても、自己肯定感をもたない人はなお、相手の愛情がそれまでのものだったから離れていったのだととらえ、ずっと気づくことができない。
彼と私の間に起きていることはこういうことなのかなと自分なりに考えている。
私たちはそれぞれ、自分で自分を大切にできるようにならないといけない。
自分を大切にできるようになったうえで、初めて純粋に愛情を与えられるようになると思うから。
いまそう思ってもがいているところだけど、彼にもそうなって欲しいなと思ってしまう。