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『 重心 』

私は、嵐が好きだ。

活動休止の期間が始まって、一年以上。ずっと思い焦がれながら、その月日を過ごしている。

いつ、終止符が打たれるのか分からない、いや、打たれることがあるのかさえも分からない、途方もない長さのそれが始まる前。当事者である五人を観る人々の大半は、「活動休止」という言葉そのものに、焦点を当てた。

活動休止の経緯は?
いつから活動休止を考え始めたのか?
活動休止に終わりはあるのか?

中には「活動休止」を「解散」と捉える人、それが事実かのように報道する人も見られた。

しかし、五人から発表された事実は、「活動休止」だった。それ以上でもそれ以下でもない、四文字の言葉が指し示すことのみが事実である。それなのに、彼らを観る人々は、そのようには捉えない。

嵐を特に好きでいる、推している人々は、自身の思いを上乗せ、そうして塗り替えてしまう。また、そうでない人々も、憶測で塗り替える。

ーどうして、その人に即せないのか。

今回の場合、その原因は、重心の置き方にあったと私は思う。

私たち、すなわち、観る側であった人々は、事実として発表された「活動休止」に重心を置き、そこから各々の捉え方をした。

しかし、「活動休止」の発表を行った五人の重心の置き場は、本当に「活動休止」という言葉そのものにあったのだろうか。

この決断に至るまでの道のりを分かる限りで簡単に遡っていくと、まず最初に辿り着くのは、一人のメンバーの「やめたい」との申し出である。この言葉は、他の四人にとって、嵐にとっては、「解散」を導く言葉であった。

何度も聞いた。嵐は五人であり、五人で嵐だからだ。四人でも六人でも、五人でない形での嵐としての活動は、最初からあり得ない。それが嵐の形だ。それ故に、嵐では一人の「やめたい」が、グループの「解散」を呼び寄せることになる。

しかし、ここから、長い、長い話し合いが続いたのだ。話し合いが続いて、行き着いたのが、私たちに発表された「活動休止」である。だから、私たちに共有されたそれは、「解散」を意味するでも、「復帰」を約束するでもない、言葉そのものの意味しか持たない、言葉である。

では、一人の申し出、すなわち、嵐の「解散」という局面からの「活動休止」への変化は何をもたらしたのか。それは復帰の可能性である。「解散」ではなく「活動休止」という形をとることで、復帰の可能性を残したのだ。

解散すれば、復帰はあり得ない。

それを阻止したのが、「活動休止」である。導かれた行先に抗い、行き着いたのが「活動休止」なのである。だから、本当は、嵐に即して思索すれば事の重心は「活動休止」そのものではなく、その内に遺された「復帰の可能性」に置かれているというべきだろう。

そこを大きく、取り上げるべきで、そこが観るべきところだと、私は思う。ここにこそ、五人の関係性が、優しさが現れていると思うのだ。

辞めたいと思い、決心し、伝えた人。
続けたいという人。
続けたいと思っている人。
どちらの思いもわかる人。

続けてほしいと願う人々。

そういうそれぞれの人の思いを汲み取って、生み出されたものが、伝えられた四文字。たった四文字の言葉だけれど、その内には多くの人の思いが留まっていて、しまい込まれていて。だから、その人の言葉を、他の人たちは丁重に扱わなければならないのだ。また、その言葉の中で重心はどこに置かれているのか、その人は何を思ってその場所に重心を置いたのか。それらを私たちは限られた言葉の中から思索し、導き出さなければならないのだ。

私は卒論で重心の捉え方を誤った。儒家である孟子の説く「思い」の質は、確かに父母への「思い」であった。それは特に、亡き親への遺された者の「思い」であった。しかし、重心が置かれていたのは、厳密には遺された者たちの「思い」そのものではなく、その内にある「満たされなさ」であった。何に身を尽くしても満たされない、どうしようもなさ故に、人は「思う」のである。



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