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自称エド・ルシェ普及委員

一般的にはいいことのように思われている歴史の長さや伝統、継承されてきた文化の踏襲。芸術の世界で活動していると、それらの重みがずっしりと体に圧力をかけていると感じることがある。
みなさんご存知のように日本は歴史が長い国で、自分たちの文化に誇りを持ち、次世代に繋いでいきたいと感じる人の方が多いと思う。そんな国の、保守傾向の強い田舎に生まれた私もまた、歴史や文化の最後尾にいる感覚を持ち合わせたまま、そうだと知らずに絵を描いていた。
大学に入っても絵を描いていた私は、アメリカンポップアートに衝撃を受けた。この比類のない軽さはなんだろうかと。
油絵や西洋画を描いている人なら、ヨーロッパの宗教画を見る機会が多いと思う。荘厳で崇高。その後時代的に宗教から切り離されたヨーロッパの絵画たちも、奥深く品が良く、どこかしらに石造りの古城のような趣を失うことがない。
アメリカンポップアートはそれらの絵たちとまるで違っていた。大学生の頃にデヴィッドホックニー展やMoMA展に行ったりして遭遇するたび、その奥のなさ、軽やかさに私は魅了されていった。

時代は過ぎて、たまたまUターンで田舎に引っ込む直前、27年ぶりにデヴィッドホックニー展が東京で開催されていて行くことができた。
前に行ったの27年前だったかと過ぎた時のボリュームに慄いた。
ホックニーがiPadで描いた絵を眺めて、改めてアメリカンポップを代表する芸術家の頭の柔らかさや、道具を超えて表現された軽やかなのにどこも浮き足立っていない世界観に触れ涙が出た。

27年という月日は、私の中で歴史や文化の重みを理解するに十分な歳月だった。
ホックニーの展覧会を機に、再びアメリカのアートを眺め出した私は、大学生の頃には視界に入ってこなかったエドルシェ作品群に魅了された。そのかっこよさに急に気がついてしまった。
これは、アメリカ人だから描けた絵なんだ。
そう思った。
生まれた時にごく自然に1300年分の何かを受け取った子供と、そんなもの何もなくて街の映画館が文化の集大成の子供、彼らが成長して生み出すものが同じなわけがない。
どっちがいいということではなく、巨大な国の創世記という得難い環境で華開いたアメリカンアートが醸し出す空気感の意味を、ようやく理解できたと感じた。
私は48歳になっていた。
エドルシェはまだ生きていて、かっこいい作品を作り続けている。


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