はじめてのサットサン
私の心に響く、素敵な記事を書いてるNaokiさんが、サットサンを開いているので、サットサンに初めて参加してみました。
こんな静かな波動の方に初めてお目にかかりました。(zoom越しですが)
まるで、人払いされた神社のような静けさでした。
誘導していただき皆さんとワークをすると、私はすっかり落ち着き静まったのでした。
参加者の方のお話を興味深く聞きながら、メモを取っていました。感覚を言語化するのって難しいなといつも思うのですが、分かりやすい言葉で説明されていたので、すごいなぁと思いました。
あまりに思考が静かになったので、質問も浮かばなかったのですが、本日参加させていただいたお礼を伝たくて手を挙げました。
ひと言お礼を言うつもりが、会話が楽しくてたくさん話していました。
他の参加者の方たちとも、同じ時間を過ごさせていただき、ありがたい体験でした。
夜になっても、思考が静かなままです。
先月辺りから、かごめかごめの歌の、
「うしろの正面だぁれ」が脳内で繰り返されていて、何のことなのか気になっていました。
それは、今日のお話に出てきた、
【自分のうしろに気づいている意識】
の事だったと分かりました。
奇跡のコース以外の会に参加するのも、
すごく自分のためになりました。
何でも柔軟に取り入れて、自分を楽にしてあげようと思います。
今日のワークブックレッスンは、
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レッスン351
罪のない兄弟は平安への導き手である。
罪深い兄弟は苦痛への導き手である。
私は自分が見たいと選んだほうを見ることになる。
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誰もが、自分自身を目の前の誰かに投影しているので、もし目の前の人に腹を立てたなら、その知覚を放棄して、自分と相手の両方を救う選択ができる。
腹を立てたことを正当化するなら、自分も相手も牢獄に閉じ込めることになる。
相手の言語に反応する時は、必ず自我を教師にして裁いている。
自我を教師にすると本当の意味での繋がりを持てなくなり、ハッキリと自覚してなくても、どこか孤独で寂しい。
自分の正しさなど捨ててしまえばいい。
聖霊を教師にするなら、相手の言葉や態度を評価する、自我の判断から離れられる。
相手の言動を超えて、相手の光(愛)の部分を感じることができる。
そっちが真実なのだから、そっちだけを見てればいいと思う。
消えてしまう部分、移り変わる部分は、本当のその人ではない。
光、愛だけが本当。
だから、それ以外は見過ごす。
見過ごせない時は、癒されてない何かがある時だ。これは、めちゃめちゃ分かりやすい。リトマス試験紙なみに一目瞭然だ。
だから、直ちに聖霊に渡す。
愛以外のものは、持ってなくていいんだよと
教えてくれる。
目の前の人は、みんな兄弟姉妹。
ありがたい。
誰にも罪はない。
ありがたい。
世界で何が起こっていても、
本当の私たちは傷ついていない。
ありがたい。
みんなつながっていて、
誰も神から離れていない。
ありがたい。
最後までお読みくださりありがとうございました。
Blessings.