見出し画像

はじめてのサットサン

私の心に響く、素敵な記事を書いてるNaokiさんが、サットサンを開いているので、サットサンに初めて参加してみました。

こんな静かな波動の方に初めてお目にかかりました。(zoom越しですが)

まるで、人払いされた神社のような静けさでした。

誘導していただき皆さんとワークをすると、私はすっかり落ち着き静まったのでした。

参加者の方のお話を興味深く聞きながら、メモを取っていました。感覚を言語化するのって難しいなといつも思うのですが、分かりやすい言葉で説明されていたので、すごいなぁと思いました。

あまりに思考が静かになったので、質問も浮かばなかったのですが、本日参加させていただいたお礼を伝たくて手を挙げました。
ひと言お礼を言うつもりが、会話が楽しくてたくさん話していました。

他の参加者の方たちとも、同じ時間を過ごさせていただき、ありがたい体験でした。

夜になっても、思考が静かなままです。

先月辺りから、かごめかごめの歌の、
「うしろの正面だぁれ」が脳内で繰り返されていて、何のことなのか気になっていました。

それは、今日のお話に出てきた、
【自分のうしろに気づいている意識】
の事だったと分かりました。

奇跡のコース以外の会に参加するのも、
すごく自分のためになりました。

何でも柔軟に取り入れて、自分を楽にしてあげようと思います。

今日のワークブックレッスンは、
◆◇…………………………………………………………◇◆
レッスン351
罪のない兄弟は平安への導き手である。
罪深い兄弟は苦痛への導き手である。
私は自分が見たいと選んだほうを見ることになる。
◆◇…………………………………………………………◇◆

誰もが、自分自身を目の前の誰かに投影しているので、もし目の前の人に腹を立てたなら、その知覚を放棄して、自分と相手の両方を救う選択ができる。

腹を立てたことを正当化するなら、自分も相手も牢獄に閉じ込めることになる。

相手の言語に反応する時は、必ず自我を教師にして裁いている。

自我を教師にすると本当の意味での繋がりを持てなくなり、ハッキリと自覚してなくても、どこか孤独で寂しい。

自分の正しさなど捨ててしまえばいい。

聖霊を教師にするなら、相手の言葉や態度を評価する、自我の判断から離れられる。

相手の言動を超えて、相手の光(愛)の部分を感じることができる。

そっちが真実なのだから、そっちだけを見てればいいと思う。

消えてしまう部分、移り変わる部分は、本当のその人ではない。

光、愛だけが本当。
だから、それ以外は見過ごす。

見過ごせない時は、癒されてない何かがある時だ。これは、めちゃめちゃ分かりやすい。リトマス試験紙なみに一目瞭然だ。

だから、直ちに聖霊に渡す。

愛以外のものは、持ってなくていいんだよと
教えてくれる。

目の前の人は、みんな兄弟姉妹。
ありがたい。

誰にも罪はない。
ありがたい。

世界で何が起こっていても、
本当の私たちは傷ついていない。
ありがたい。

みんなつながっていて、
誰も神から離れていない。
ありがたい。

最後までお読みくださりありがとうございました。

                Blessings.



いいなと思ったら応援しよう!