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母の祈り沁む

夏の雲駆り立てし嵐過ぎ越して帰りし胸に母の祈り沁む

なつのくもかりたてしあらしすぎこして
かえりしむねにははのいのりしむ


夏の雲がぐんぐんと流れていく。うなじをひやりとした風に撫でられて、7歳だった私は首をすくめた。高台から見下ろす海は空に流れ込んだ黒雲が溶けたように暗い色へと変わり、なだらかな砂浜だったあたりは引っ切りなしに荒々しい波をかぶって、一面、泡まみれになっていた。

さっきまで、晴れてたのに。

私は今朝方、父方の田舎にやってきたばかりだった。
「なんだ、こっちも暑いな。こんじゃ、ワシんトコとそう変わらんのぅ」
車を降りた父のつぶやきは関東の口調で始めたものの、一呼吸したあとは、電話で祖母と話すときの言葉になっていた。
まずは大きな仏壇のある部屋に行き、線香をあげるのが決まりだった。母はいつも少し後ろに座る。ちらと振り返ると、母は父がするように手を合わせずに、畳に正座をした膝の上で、教会でいつもしているように手を組んで、目を閉じていた。視線を戻したとき、廊下から祖母がこちらを見ているのに気づいた。

祖母が振る舞ってくれた朝食兼早めの昼食は、庭で育てた野菜の味噌炒めだった。味醂みりんで甘辛くした味は好きだったが、母親に「お肉食べたい」と耳打ちをしたら困った顔をされ、「晩御飯にね」と耳打ちで返された。普段なら引き下がらないところだったが、母からの耳打ちがくすぐったいのに気を取られて、駄々をこねるタイミングを逃してしまった。
両親が荷物を解いたり布団をひいたりで忙しくし始めた頃、私は、前の年に見つけたお気に入りの場所を思い出した。母がシーツを取りに部屋を出ていたので、鼻歌交じりに釣竿をいじっている父に尋ねた。
「外に行ってきていい?」
「あまり遠くには行くなよ」
そう答えた父はいつもの話し方で、それでも、どこかが違っていた。ワイシャツを脱いでソファにどっかりと座るときよりも、休みの日に釣竿を磨いているときよりもずっと、「休んで」いたのかもしれない。

記憶通りにたどり着いたその場所は、頭に描いていたよりも強い日差しに焼かれていた。高台の展望台。左手には遥か遠くまで明るい色の海が広がり、右手のなだらかな砂浜を上がったところには、切り立った小さな丘が、白茶けた岩肌の上に緑の樹々をこんもりと生やしていた。その緑から、一本の触角のようなものが突き出している。いくつものスピーカーをつけた、サイレンの柱だ。
ほんの少し曲線を描いた小石交じりのコンクリートの垣は、私の胸ほどの高さで幅広く平らに作られており、子どもの私ならばその上に悠々と寝転ぶことができた。とはいえ垣の向こうは崖なので、もし母がこれを見たら、真っ青になって引きずり下ろしただろう。
私のお気に入りの場所とは、広く言えばこの展望台で、より狭く言えば、その展望台の垣にかかる太い木の、その一番太い枝が作る木陰の中だった。そこの垣に手を掛けると、ひんやりと心地よい。私は、垣の上に腹ばいになって両肘をつき、腕を交差させて顎を載せ、冷えたコンクリートのざらつきと、その中に埋め込まれた滑らかな小石の、一段と冷たい感触を楽しんだ。

しばらく涼んだあとで、私はポケットから角の擦り切れた本を引っ張り出した。適当に開いたところから読み始めたが、崖下から吹き上げる風がページを舞い上げようとするので、ごろんと仰向けになり、本の両端を掴んで読むことにした。すぐに本の世界に入り込む。時折、一際大きな波の音が垣を伝って背に響いてきたり、葉擦れの音が涼やかに降ってきたり、強い潮の香りが吹き上げる風に乗ってきたりと気を引こうとしたが、私はそれらを、意識の外で楽しみながらなしていった。しかし、しばらくして私を本の中から引き出したのは、サンダルの足先がじりじりと焼かれる感触だった。
足を引っ込めながら肘を立てて覗いてみると、知らぬ間に木陰が枝の真下だけに掛かるように動き、足先がはみ出していたらしい。私は太い幹の近くに体をずらして、また本の中に戻っていった。
次に本から無理やり引っ張り出されたときには、私は完全に、夏の嵐に取り囲まれていた。

遠くのほうで、かすかにサイレンの音が聞こえていた気はした。それでも、近くにあるあのサイレンの柱は黙って立っていたので、構わず読み続けていたのだった。ざざあっ、と激しい葉擦れの音がした。と、その葉の間から、ぼたっ。ぼたぼたぼた。大きな雨粒が落ちてきたからたまらない。私は慌てて、木の幹に身を寄せた。
夏の雲がぐんぐんと流れていく。うなじをひやりとした風に撫でられて、私は首をすくめた。高台から見下ろす海は空に流れ込んだ黒雲が溶けたように暗い色へと変わり、なだらかな砂浜だったあたりは引っ切りなしに荒々しい波をかぶって、一面、泡まみれになっていた。

さっきまで、晴れてたのに。

風が荒々しく吹きつけてくる。垣の上にいるのはさすがに怖くなり、幹を伝って内側に滑り降りた。雨はどうどうと滝のように落ち、足の先1メートルほどのところで小さな川になって、坂下へ流れていく。頭の上で、風がおんおんとうなりを上げている。怖かった、けれど、まだ平気だった。私は幹と垣に囲まれた隠れ場で、雨と風から守られていた。
これなら大丈夫、と胸を撫で下ろしかけたとき、それは落ちてきた。
ストロボのような閃光。
がーん。ばりばりばり。
あまりの轟音に、何が起きたのか分からなかった。
近くに雷が落ちたのだ。

真っ白な光にくらんだ目を閉じることもできず、私は体を固くしていた。
光は幾度も、滝に打たれる公園を照らし出した。直後にびりびり、ばりばりと空気を裂く音が耳を打つ。
この木に落ちたらどうしよう。かみさま、たすけて。たすけてください。かみなりが落ちませんように。
母がしていたように両手を組み、その指をぎっちりと握りこんで、私は口の中でそう繰り返した。
ふと、教会学校で聞いた話が頭をよぎった。「宗教改革をしたルターさんはね、雷に打たれて生き延びた経験をして、神さまに人生をささげる決意をしたのよ」雷に打たれて。打たれても。いや、打たれたくありません。自分は打たれなくていいです。たすけてく
閃光。がりばりばり。
ひっ、と息をのんだ瞬間、初めて真正面から吹きつけた風に、滝のしぶきを浴びせかけられた。こわい、こわい。いやだ。かみさま。閃光、続けざまに世界を反転させる強い光。あの音が来る。いやだ。たすけて、かみさま、

「かみさま!」

思わず叫んでいた。ばりばりという音が来るはずだった。
しかしそれは突然、嵐の中に現れた。

ガガ。ゥウウウウ————ウウ

背中のほうから聞こえてきたそれは、間近で響くサイレンの音だった。
その音は、
ウウウ————ウウ
雷を打ち倒すかのように力強く
ウウウ————ウウ
風を突き破るかのように力強く
ウウウ————ウウ
雲を蹴散らすかのように力強く、響いた。

どれだけそうしていただろうか。気づけば、滝のようだった雨は細くなり、風は口笛のような音になり、雷は遠くに行ったようだった。あのサイレンの音も止んでいた。
我に返った私は、立ち上がろうとして少しよろけた。腹に抱えていた本がばさりと落ちる。幹で体を支え、固まった膝を伸ばした。私は本を拾い上げ、木の下から出ていった。そこにまだ残っていた小さな流れを跳び越えると、祖母の家への道を急いだ。

垣根を曲がって家の前の道に出ると、遠くから名前を呼ばれた。かすれた、ほとんど叫びに近い声。
ぬかるんだ道を母が走り出し、父が追いかける。大股の父が母を追い越しざまにその手首をつかんで引き、両親はもつれ合うように走り寄ってきた。父は私の目の前でぐっ、と足を踏ん張り、母はそのままの勢いで。
私は、母の胸に包まれていた。
上がった息の合間に、私の名が呼ばれる。何度も、何度も。
私は大声で泣いた。父の大きな手が、頭を何度も、何度も撫でてくれた。
苦しくなって母の肩に顎を載せると、祖母が近所の人たちと門から出てきて、こちらに気がついて手を振ったのが見えた。祖母は曲がった腰で、周りの人たちに何度も、何度もお辞儀をしていた。

息を落ち着けた母は、私を再び胸にかき抱いて、囁き声でこう言った。
「ああ、天のお父様。この子を返してくださって、ありがとうございます」
それが耳に入ってきたとき、ぽたり、と。胸の内に何か、温かな滴りが落ちたような気がした。
そして、この母の祈りは天にのぼっていったのだと、分かった気がした。

落ち着いてから、嵐に遭ったときのことを家族に話した。雷の話をすると、母は震え上がった。
そしてひとつ、不思議なことがあった。
「そうしたら、サイレンが急に鳴って、嵐がやんだの」
私がそう言うと、両親が何とも言えない表情で、顔を見合わせたのだ。
母は、悪戯っぽく父を見ている。父は、居心地悪そうに母を見返した。しかし、降参したようにため息をついて、こう言った。
「サイレンが鳴ったとき、俺も祈ったんだよ。母さんの神様に、お前を返してください、って。そうしたらいきなり鳴り出したんだ」
えっ、と声を上げたのは祖母だった。あのサイレンは最近壊れて、来週に修理される予定だったのだという。祖母はちゃぶ台の脇に置かれた回覧板を引っ張り上げて見せてくれた。修理予定日として、来週の日付が書いてある。

私たち家族は、顔を見合わせた。しばらくの間のあと、
「ともかく、お礼を言っとこう。
 母さんの神様、ありがとうございました!」
父があっけらかんと、そう結んだ。祖母は苦笑していた。
母はその間で、にこにこと微笑んでいた。


小牧幸助さんの企画に参加しています。
文字数は膨らみに膨らんで四千文字弱へ
でも、結末まで書けて嬉しかったです。

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