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視覚思考者の存在とスポーツ指導について

割引あり

『ビジュアル・シンカーの脳』という本を最近読んだ。

世の中には言語ではなく「視覚」で思考する人が一定数居るのだということを示した本だ。

思考というものは基本的に言語で行うのが当たり前だと思っていた言語思考者である僕にはかなり衝撃的な内容だった。

僕と同じように思考は言語で行うのが当然だと思っている方が居たら是非とも読んで頂きたい。自分の中の常識が一つ崩される快感を味わうことができるはずだ。

また、本書は『ゆる言語学ラジオ』で紹介されており、僕が本書を知った切っ掛けもこの動画である。

非常に上手く本の内容を要約しつつ楽しく雑談している様が楽しめるので、本を読むのはしんどいという方はこの動画の視聴をお勧めしたい。


ビジュアル・シンカーとは?

ビジュアル・シンカー(視覚思考者)は大きく2つに分類される。

頭の中に具体的な映像(絵や写真や動画的イメージ)が浮かぶ
「物体視覚思考者」

パターンと抽象的な概念(図など)で考える
「空間視覚思考者」

である。

物体視覚思考者は、写真のように正確なイメージでまわりの世界を見る。グラフィック・デザイナーや画家、目端のきく商売人、建築家、発明家、機械工学士、設計士などがそうだ。一方、空間視覚思考者は、パターンと抽象的な概念でまわりの世界を見ている。音楽や数学が得意で、統計学者、科学者、電気技師、物理学者などが当てはまる。コンピュータープログラマーに空間視覚思考者が多いのは、コードにパターンが見えるからだ。

『ビジュアル・シンカーの脳』(p.40).NHK出版.Kindle版.

つまり思考の型は
・言語思考
・物体視覚思考
・空間視覚思考

の3種に大別されることになる。

しかしここで注意したいのは、これらの分類は必ずしもハッキリとした断絶で分類されるわけではなく、グラデーション的に強弱があるということだ。

言語思考者であっても100%言語だけで思考するというのはかなり珍しく、言語メインで思考するが、サブ的にぼんやり視覚イメージを用いて思考するのが普通だし、視覚思考者であっても言語思考をまったくしないというケースは稀だ。

(ごく稀に視覚的なイメージを全く用いず思考する「アファンタジア」と呼ばれるタイプや、ほぼイメージだけで思考する「ハイパーファンタジア」と呼ばれるタイプも居るらしい)

「頭の良さ」は「説明の上手さ」か?

「本当に頭が良い人は説明が上手い人である」というような言説があるが、視覚思考者の存在を考慮に入れればこれが明確に誤りであるということが分かる。

「説明が上手い」ということはつまり「言語化が上手い」ということとほぼイコールだ。

言語思考者であるほど説明が上手い可能性が高い。

しかし視覚思考者は、言語で説明できないだけで頭の中では言語思考者よりもはるかに鮮明で正確なイメージを持っている可能性がある。ただ、そのイメージにアクセスできるのが自分だけであるというだけで。

スポーツの現場で「優れたプレーヤーが優れた指導者になるとは限らない」というのもこのあたりが関係しているのかもしれない。

天才肌と言われるプレーヤーは視覚思考者である可能性がある。

特に、瞬時の判断や、自分の身体をどう動かすかの具体的イメージの正確さが求められるようなスポーツでは、言語思考者よりも視覚思考者のほうが良いプレーヤーになれる適正はかなり高いかもしれない。

しかし指導者に求められる能力として、言語による伝達能力は不可欠だ。

自分の頭の中には鮮明なイメージがあるが、それを生徒に伝える術がなければ指導は難しい。

言語能力が高い元アスリートとして代表的な人物の一人である為末大さんは『ことば、身体、学び』という本の中で

映像は情報が多すぎて正確すぎ、人間が一時に処理できる処理能力を超えてしまっているのだと思います(中略)例えば、ピッチャーがボールを投げた瞬間の指を切るような動きは、ただ、映像を見ても、真似をすることは難しいです。でも、「タオルを弾くように投げる」と言うと、最後にタオルにパチンと当てようとするので、自然と指を切る動きも出ます。
このように、ことばは大事なところにスポットライトを当てることができるため、コーチングには、実は、ことばがいちばん適しているのではないかと思っています。

『ことば、身体、学び』(扶桑社BOOKS新書)(p.15).株式会社 扶桑社.Kindle版.

というように、コーチングにおける言語の重要性・有用性を語っている。

僕はこの本を読んだ時に深く共感し、納得したものだが、それは僕自身も言語思考者であるが故だったのかもしれない。

ひょっとしたら視覚思考者の場合は、クリティカルに適切な言語表現で教えられるよりも、映像による手本を数多く様々な角度から提示してもらったほうが習得が早いかもしれない。
「情報が多すぎて正確すぎ」る映像を、脳内でしっかり処理できる能力を視覚思考者は持っているかもしれない。

職人の仕事の覚え方などもそうだ。

職人の技術継承は昔から「見て覚える」とか「見て盗む」とかいったやり方が一般的で、言葉による説明が乏しかったりした。
言語思考のインテリの視点からすればこれはいかにも非合理的で遠回りなやりかたであって、きちんと文書としてまとめたマニュアルなどを作成したほうが効率的に技術継承ができるはずだと思ってしまう。

しかし職人の世界では視覚思考者こそマジョリティなのだとしたら話は変わってくる。
師匠も弟子も視覚思考者であるならば、言語によるマニュアルなどが無いのは単に「そのほうが教えやすいし教わりやすいから」なのかもしれない。

言語思考者にとっての合理性は必ずしも視覚思考者にとっての合理性とは結びつかない。

ボルダリングのオブザベーションについて

ボルダリングのオブザベーションの際も思考の型によってやり方は異なるだろう。

たとえばこういった配置のスタート~1手目の姿勢をどうオブザベーションするかとなると

思考の型によってざっくり次のようにそれぞれ異なるアプローチで考えるはずだ。

さらに、実際に登ってオブザベーションの結果を照合したり、フォールを繰り返す中でムーブの細部を調整・検討する際もそれぞれアプローチは異なるはずだ。

言語思考者であれば脳内で独り言をつぶやくように想定との相違点を言語化し、修正し、言語で記憶してもう一度登るというアプローチになるだろう。トライ間の思索の時間は長くなりがちかもしれない。

物体視覚思考者であれば、登った際の視界や、後ろから見た自分の姿のイメージ、ホールド形状の像などの解像度を上げていくというようなアプローチになるだろう。自分の動きを動画に撮ってそれを確認するという手段がかなり有効になるかもしれない。

空間視覚思考者であれば、力の加わる方向や動きのメカニズムの詳細が脳内の図にどんどん描き加えられるようなイメージになるかもしれない。手や足にかかる負荷からのフィードバックなども図像的に記憶されるかもしれない。

このように、思考の型によって有効な取り組み方や時間のかけ方も変わってくる。

指導者はそういったタイプの違いを考慮に入れ、十把一絡げに画一的な指導をするのではなく、個人個人のタイプに合わせた指導を目指すべきだということになる。

「言語化」に寄りがちなスポーツ指導

ある程度年齢が高くなるほど、言語思考をメインにしている人のほうが多くなってくる。
なぜなら現状の義務教育制度は、万人の言語思考能力を伸ばす方向に特化しているからだ。

どうも幼児の段階では視覚思考寄りの子どもはかなり多いらしいが、小学校に入学したあたりから徐々に言語思考に寄っていく傾向にあるらしい。

そういった状況であるから、レベルの高い環境であるほど、要点を上手に言語化して伝えた時に教えた相手の問題が劇的に改善したり飛躍的に技術が上達したりといった成功体験を指導者は積みやすい。

なので指導者は「上手に言語化して伝える」ということにこだわるようになっていきがちだ。

教える相手が言語思考者であればそれで上手くいく。

しかし、やはりたまに視覚思考者と相対することもある。
生徒の年齢層が下がればその割合はもっと増えるだろう。

その際、言語思考者に上手く伝わった成功体験を引きずっていると「多くの人にはこの説明で分かってもらえている。この説明で伝わらないということはこの人の理解力が乏しいのでは?」という誤解に陥ることになる。
そうやって知らず知らずのうちに「落ちこぼれ」を生んでいるかもしれない。

また「理解=言語化」であるという思い込みに囚われている指導者は、教え子にもとにかく言語化を求めたりもする。
「いいか、なんとなく出来ているだけでは再現性が無いんだ。それは本当に身についているとは言えない。言語化して説明できるようになってはじめて、その技術を習得したと言えるんだ」というように。

これは視覚思考者からしたら最も言われたくない台詞のうちの一つだろう。

敢えて辛辣な言い方をすれば、そういう指導者は「自分の言語化能力に酔った結果、一部の教え子を落ちこぼれにしてしまっている」というふうに言えてしまうかもしれない。

視覚思考者の存在を認めた上でのスポーツ指導

では言語思考者の指導者は視覚思考者の教え子に教えることはできないのだろうか?

もちろんそんなことはないと思う。

『ことば、身体、学び』の中で為末さんは「熱々のフライパンの上を走るぞ」ということばで指導すると、きびきび足を動かすようになる生徒が多いと語る。
これは具体的な視覚イメージを想起でき、視覚思考者に対しても有効な教え方であるとも思われる。

また

「熱いフライパンの上を走る」は小学校中学年以上の比較的年齢の高い子どもには伝わりやすいと思いますが、幼児にはオノマトペのほうがわかりやすいかもしれません。

と、言語表現の限界を認めた上で

コーチの役割は、誰かの成功体験から導き出されたひとつの法則を誰にでも当てはめようとするのではなく、目の前の学習者の発達段階や理解度、習熟度などによって柔軟にもっとも有効な(つまりもっともダイレクトに伝わりやすい)ことばをかけることにあるといえると思います。

『ことば、身体、学び』(扶桑社BOOKS新書) (p.32). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.


と述べている。
為末さんは、年齢が低い子どもは視覚思考的で、年齢が高くなるほど言語思考が得意になってくる傾向にあるということを経験的に感じているのかもしれない。

しかしここで「視覚思考者=幼い」というようなイメージを持つべきではない。
年齢に関わらず思考の型が言語寄りか視覚寄りかということを考慮する必要もあるだろう。

そのうえで、相手が相手なりのやり方でしっかり言葉で考えたりイメージを形にしたりできるような適切なことばを選択したり、映像や図表などを用いた方法を試したりして、各人に合わせた指導法をフレキシブルに選択できるというのが良き指導者なのだろうと思う。

おわりに

僕はかなり典型的な言語思考者であるという自覚がある。
文中に登場した「言語化に寄り過ぎている悪い指導者像」は、実は自分自身を指してもいる。

思い当たるフシがいくつかあったりもする。

なので今回のこの記事は自分自身への反省と自戒を込めた文でもある。

まがりなりにもボルダリングジムオーナーとして、一般利用の方に指導することもあるし、キッズスクールも開講している。
自分のことを特別優れた指導者だと思ったことはないが、最低限、払っていただいた対価に見合う指導はできるようにと心がけている。

この度『ビジュアル・シンカーの脳』を読んだことで、ひとつ蒙を啓かれた思いだ。

まだまだ未熟ではあるけれど、今後も良き指導者に近づけるよう精進したい。

投げ銭用有料部分

今回の記事はこれで終了となります。
今回の内容はなるべく多くの方に最後まで読んで欲しかったので全編無料で読めるようにしました。
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