もう、ファボするのをやめにしないか?
これは、タイトルだけだとかなり誤解を招きそうではあるけど、無言でファボし続けること、し続けたことへの自分の中での反省でもあり、同時に湧いた疑問でもある。
先日購入したfujifilm XE-1を試し撮りした写真をレタッチしてTwitterに上げて、アカウントに繋がりがない知り合いに「こんなの撮ったんだー」と送って見せてみたらいたく気に入ってくれた。率直に言葉で「(この写真が)好き」と言って貰え、それは多くのファボを貰うよりも嬉しくて、その理由を具体的に教えてくれて尚のこと嬉しかった。
まぁ、要はその人の感性に刺さった。そしてそれを伝えてもらえて嬉しかった。
Twitter、Instagram、どちらも無言のファボが溢れかえっている。
自分もそれに一躍かっていて、撮影者の想いに特に触れることなく指先でハートマークに押下する。
もちろん、その写真を撮るまでの経緯を想像することもあるし、ファンである写真家ならその人の創造性や作風に既に関心を持っていて、新作が出てくると「待ってた!」と言うようにタップしたり、なにか思ったことをコメントしたりもあるけど、そんなのは1割に満たないんじゃなかろうか。。
言葉に出来ない「好き」もあるかもしれない。
ただ何となく好き、自分には撮れないから好き、モデルが可愛いから好き、まぁ、色々ある。
でも、それが一過性のものだとしたらどうだろう?
5分後にはその感情が何処かへ消え去り、また新たな「好き」が生まれ、また消えて、バラエティ番組の1コーナーでひと笑いしてまた別のコーナーで笑って明日には忘れてるみたいな、数日後には話題にさえ挙がらなくなる「一過性の好き」だとしたらファボの価値は無いに等しい。
自分も多分に漏れず価値の無いファボを押し続けてきた。
なんて失礼な事をしてきたんだと。
もっとちゃんと言葉にして伝えれば良かったんじゃないか?と。
言葉にすることが不粋だと思う人もいるかもしれないけど、自分たちは人間であり、地球で唯一言語を持ち、それを交わすことでお互いの意志疎通を行っている生き物だ。人類にとって言葉というのはとても重要で、美しく、時に芸術となることもある。それをなえがしろにするのはどうだろう?言葉で伝えることで作品に寄り添うということにはならないだろうか?
じっと眺めるだけじゃ足りないくらい、言葉にしないと内面に湧き出す感情が行き場を失うくらいその作品が好きならまず言葉を発するべきだ。
言葉を発して、それからハートマークを押しても遅くない。
言葉にして貰えた時は、多分、誰でも、無言でファボを押されるより何倍も嬉しいはずだ。
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