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繋がりをやめない

今日は一日、布団の中にいた。貴重な休みなのにToDoは洗濯しかクリアできなかった。頭がぼんやりして胸がズキズキする。
昨日は仕事終わりに職場の女性たちで食事に行って楽しい夜だった。
楽しかったはずなのに人と交流すると少なからず傷ついている自分がいる。悪意のあることを言われただとかそういうことではない。表面上には何もなかった。それなのに疲弊している自分にガッカリする。

理由はわかっている。他者と交流するなかで己の嫌なところが目について仕方ないからだ。以前は自分の振る舞いや言葉に自己嫌悪し、反省ばかりしていた。いろいろ経て、無駄なことこの上ないと思い、その習慣は捨てた(失態を晒した時は反省しているが)。それでもまだ他者を通して、見えてくる自分にうんざりする。

2022〜2023年を人生のどん底と仮定したとして、今は這い上がっている段階にある。ずっと治療している双極性障害は昨年の11月末に初めてリチウムの血中濃度が適正値になり、秋頃から現在において気分が安定している。冬季といえば鬱で寝込むでお馴染みだった私が布団から抜け出し、働きに出ている。こうして食事や飲み会に参加できるまで回復している。

もしかしたらそれだけで十分すぎることなのかもしれない。だが、私はそれだけでは嫌みたいだ。昔の自分のように多くの人と繋がって楽しい気持ちになりたい、そんな気持ちがあるのだと思う。
今がまだ回復期にあるから人と関わることに負担を感じるのかもしれないし、人生が停滞している間にマイナスなアップデートが行われ、私の心身は作り替えられてしまったのかもしれない。

人と関わることは傷つくことだけど、私はそれが好きだった。傷ついてでも関わり続けたいと思う人たちがいた。今は関わることのなくなった人たちばかりだけど、過去はそうだった。
傷つきすぎた心身がもうこれ以上、傷つくことを拒否しているのかもしれない。
私の考えと心身の反応はいつも乖離している。私があの場所に行きたい・あの人に会いたいと望んだとしても先に心身がNGを出す。時に心さえ置いておきぼりに体だけ強固な反応を示す。

人は無茶をしすぎるとこうなってしまうのだろうか。
私の人生なのにままならない。でもこの件に関してはもう受け入れているから抵抗する気持ちはない。ただ人と関わることに関しては、残念に思う。大人数の集まりに参加して、心から楽しむことはもうできないのだろうか。大人数といわず、昨日のような少人数の集まりさえ、難しいのだろうか。
今は親密な友人と短時間の食事をするくらいしかできない。それどころか最近は気が置けない家族でさえ長時間いっしょにいることが厳しい。

人と仲良くなる気持ちもいっしょにいたい気持ちもあるのにどうしようもできない。唯一、動物とだけは一切のストレスがかからないのが救いだ。猫になりそうなくらい猫とずっといっしょにいる。

最近は恋人を欲しいとさえ思わなくなってきたし、ツイッターもやっていない。孤独を極めようとしているのかもしれない。でも寂しさも特に感じていない。

いつかまた人とストレスなく関われるようになったらいいなと思いつつ、無理なら無理でそれに対応した生き方をする必要がある。どんな生き方であれ、私のそばには絶対に猫がいることがわかっているから怖くない。先のことはまだわからないし。

私は人が好きだから(嫌いでもあるけど)、人との交流を諦めるつもりはない。

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