『ニンゲンはお好きですか』 #1 連載小説
「凛子さん、猫、お好きなんですね」
コーヒーをひと口すすり、紘人は言った。
マッチングアプリでやり取りして初めての対面。よろしくお願いします、からの第一声。辿々しい。人見知りな性格らしく、ちら、と凛子のスマホに目を向けている。よく言ってウブな印象。悪く言えば、女慣れしていない。凛子は、まあ馴れ馴れしいよりかはいいか、と同じようにコーヒーを口に含んだ。
「ええ、昔は実家で猫を何匹か飼っていたことがあって。物心がついた頃には、猫がいたんです」
「黒猫だったんですか」
「あっいえ、白黒だったりキジトラだったり真っ白とか。……スマホカバーは黒猫ですけど、猫グッズはシルエットだけのものを選びがちで」
「そうですか」
早々に会話が終わった。
この短いレスポンスだけで自分の方が明らかに口数が多い。質問以上に回答が多いと思われているかもしれない。
これまで出会った男性は、やけに喋る、落ち着きがない、他の女性と比べたがる、なにかと質問攻め、仕事できる経済力アピール。凛子の物静かな性格とは相性が良くない人ばかりだった。みんなしっかり働いていたし、職種なんか問わない。サラリーマンだろうが肉体労働者だろうが性格が合えば気にしない。……のだけれど。いざ話したらニガテだな、と思うことが多々あった。
新しいこの男性は、「猫が好きではない」「自分も好きです」などと繋げることはしないらしい。お喋りな男性は合わないと認識しながらも、結局無い物ねだり。こんなところで自己中な思考が発揮されるようで。出逢いって難しい。
「あ、紘人さんは猫は大丈夫ですか? アレルギーとかおありだったら、と」
「僕も猫は大好きです、いつか飼ってみたいなあって思います。アレルギーもないです」
「そうですか、なら良かったです」
この人を伴侶にするなんて決まっていないのに、良かったです、とは言葉選びに失敗した気がするが、マッチングアプリというのは気の合う人間を探すツール。
凛子は、まずまず、といった表情で「猫ってかわいいですよねえ」と口角を上げた。
「お待たせしました、紅茶シフォンのお客さま。ガトーショコラのお客さま」
紘人がさっと手を差し出して紅茶シフォンが凛子の前へ置かれる。店員に会釈すると、ガトーショコラを目の前にした紘人の頬がようやく緩んだように見えた。
「美味しそうですね」凛子も微笑むと、
「ここの喫茶店、僕のお気に入りなんです」と男女逆のような可愛らしい返答が妙にこそばゆくて、くすぐったくて。甘党宣言するヒトには老若男女問わず同調したいくらい、そして凛子もその一人。
二人で甘味を含むと、目尻が垂れていく。
「んんー」マタタビを得た猫のように声にならない喜びを噛み締めては、苦味を交互に味わっていく。
休日の蕩ける、至福、──。
「カフェ巡りとかもいいですよね」
「他にも僕のおすすめのカフェがあるのでぜひご一緒できたら。……あ、まだ会って浅いのに次の約束なんて、すみません。気にしないでください」
「そんな、私も知らないお店とか巡るの好きなので、ぜひ一緒に行ってみたいなあと思っていました」
「そうですか、なら良かったです」
さっき凛子が返した安堵の言葉とまるっきり同じ返答をしていることを、きっと彼は気づいていない。
なんとなく上辺じゃないと察したので、あっさりと『この次』を取り付けてしまった。
結局、ヒトの信頼って実はとても単純で、案外まどろっこしいものは不必要なのかもしれない。私は騙されやすいのかもと一瞬疑ったものの、凛子はそれもまた経験となるからいいか、と前向きに捉えることにした。
ケーキをぱくぱくと半分まで食べ終えたところで質問を投げ返す。
「紘人さんは甘いもの以外に何がお好きですか?」
「ええっと……好き嫌いはないんですが、和食や魚を好んでいる気がします。凛子さんは?」
「和食は私も好きです。お寿司とか、定食屋さんとか」
「僕、出かけ先で昔ながらのお店にふらっと入っちゃったりして」
「情緒あるお店やアンティークなものがお好きなんですね。ここの喫茶店みたいに」
「あ、言われてみればそうかもしれません。あまり意識したことがなくて」
アプリで事前に知り得た情報は少ないし、紘人の苦手なものを知らない。
甘いものが好き。散歩やのんびりすることが好き。そんなことぐらいしか分からなかった。今後を考えるなら食の相性は大事だ。とは言え、相手に求めるものはあまりなくただ気が合ったらそれで良い気もする。
──気が合う、馬が合うってどんな感覚だっけ。
「ああ、美味しかったあ。素敵なお店をありがとうございます」
「凛子さんが喜んでいただけて良かったです。僕の好みに合わせてしまったので」
「私の好みでもありますよ。それに食べ物の好みも似てるようですし」
「そうですね、はは」
紘人が歯を見せて笑った。
これまで懐かなかった猫が心を開いたように感じて、凛子もつられて笑顔になった。
その後も、好きなことばかり語って嫌いなことは口にしなかった。凛子のそれは自身の性格と好印象に近づくためもあるけれど、紘人もそうなのかは分からない。
嫌いなものを語って同調することになんだか居心地が悪くて、後味がすっきりしないのだ。
それに苦手なもの苦手だと言うタイミングって、難しい。
紘人がお手洗いに行っている間、この洋風なアンティーク調の店内を眺めていた。飾られた絵画はお洒落な額縁。外のガラス窓からの覗き見ただけでは敷居が高そうで、自分ではまず立ち入らない。充満するコーヒー豆の芳醇な香り。新しい扉の気配がした。
──喫茶店って落ち着くし、肩が凝らなくていいなあ。知らない世界だ。
お店の印象と共に紘人への好奇心が上がった。
そしてなによりも庶民的な価値観という共通点が、凛子には新鮮だった。初対面で高級そうなレストランもいいけれど、なるべく相手には気兼ねなく接したい。
もちろんお金はあったら困らない。生きていく上では便利なものだけれど。ただ、それなりに身の丈にあった生活が一番気が楽だとある時、ふと気づいた。女子会の終わり、全身ブランドものを身につけていたある晩、急にそれが降ってきた。もう疲れていたんだと思う。
それを機に、周りの友人に合わせた「あのブランド買った」という見栄の張り合いは二十代中盤で終わらせた。
自分の場合は見栄よりも、付き合いのために、が優先されたが今となってはそれも良い思い出だと振り返れる。
「……凛子さん、大丈夫ですか? ぼうっとしていたので疲れたのかと」
「あ、いえ。お店の雰囲気にうっとりしちゃっていて、実はこういう喫茶店ってあまり来たことがなくて」
「いいですよね、ここ。僕もほの暗い照明や賑やかすぎない雰囲気が好きで。紹介できて良かった」
「この後はどこ行きます?」紘人の問いかけに、もう暫くこの非現実感を味わいたいと凛子は「まだここで過ごしてもいいですか?」と願い出た。
ゆっくりあなたのことを知りたい、──との互換だとは気づかないで、と秘めながら。