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まずは自己紹介など(2)

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私は1989年(平成元年)に大学を卒業し、故郷の福岡に帰って家業の酒屋で働くことになりました。大学のゼミの友人たちは皆名のある大企業に就職し、格好いいスーツを着て働いていましたが、私はといえばジーンズにTシャツに前掛け、来る日も来る日も汗をびっしょりかいてビールやお酒を運んでいました。その時の私の気持ちは「そのうちこのお店を大きくするから、見てろよ!」って感じでした。

私がなぜ企業に就職せずに家業を継いだのかはこの気持ちにありました。大学で学んだマーケティングや消費者行動学の知識を実践に活かせば、間違いなく近隣の酒屋に大きく差を付けて勝つことができると考えたからです。当時、このような商業や経営の専門知識を活用している酒屋の経営者は周りにはいませんでしたから。つまり私は、父が起こした家業の酒屋を「商売」という定義から「酒販ビジネス」と再定義して戦おうと考えたのです。

そしてその頃、専門雑誌で関東圏の酒販ビジネスが新しい発展を遂げていることを知りました。徹底した専門特化をする「カテゴリーキラー」や、徹底したコスト削減による「ディスカウンター」などアメリカから入ってきたビジネスの概念は、私にとって刺激的でした。しかも、関東圏や東北の新しい店舗は私のお店の10倍以上の広さがあり、ひとつの店舗の年商は数十億円。当時の私のお店の売上げは7,000万円程度だったので、その雑誌記事を読んでからは矢も楯もたまらず見学に行き、経営者に話を聴きました。

1991年、私は新会社を立ち上げて新しい酒販店舗を作りました。ワインと日本酒に力を入れたカテゴリーキラー的な要素と、ディスカウンター的な要素とをミックスした中型の店舗を作り、当時は地域で注目されるほどの売上げと利益を上げていました。

ところが、当初の5~6年は数億円の売上げを記録したものの、この時代は既にバブル崩壊の後、苦し紛れにディスカウント販売する酒屋が雨後の竹の子のように出てきて、完全なる過当競争時代に突入しました。くわえて、国の規制緩和政策で酒の小売販売の免許制度は徐々に緩和され、異業種からの新規参入業者も増えました。

2001年、私は今後の小売酒販業がビッグビジネスに発展するイメージが湧かなかくなり、父と私で作り上げた会社を2つとも清算しました。その時はまだ数億円の借入金を残したままでした。当たり前ですが、その時の世間は冷たいものでした。昨日までニコニコと談話していた取引先の担当者は、掌を返したように冷たい表情と口調で売掛金の回収に来ました。

また、銀行の担当者は見るからに柔道部出身でごっつい体格の取立て専門の担当者に交替し、ヤ●ザのように時折大きな怒鳴り声を上げ、テーブルを叩いて私たちを脅し返済を迫りました。「対話もできないこんな人間が銀行で働いているのか?」と私は愕然としました。後で知ったことですが、バブルの時代には体育学部に運動推薦で入った学生も銀行にたくさん就職し、バブル崩壊後にこのような部署に配属されたそうです。その一部にこのような行員もいたのでしょう。

父と私は、銀行からの借入金を返済するために会社の担保物権の売却を急ぎました。それだけでは足らず、私個人の保険金や預貯金も銀行に差し出し、所有する不動産も自宅も全てを売却して銀行返済に充てました。つまり私は、35歳で家も貯金も、全ての財産を失ってしまったのです。

幸いにも過剰債務は整理することができ、自己破産だけは間逃れましたが、このような状態では家族関係もギクシャクしてしまい離婚、私は40歳にして文字通り身一つというか裸一貫というか、そういう状況に置かれることになってしまいました。

この時期の私は完全に希望を失い、毎日私の頭の中には「はい、人生詰みました」という文字がループしていました。

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さてさて、自己紹介のつもりで書き始めましたが、私の数奇な人生を自叙伝風に書き綴っています。思ったより長くなりそうですが、概ね第4話くらいまででまとめようと考えておりますので、よかったら最後までお付き合い下さいませ。

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