8月30日 本日クリスマス
綺麗とはいえないキッチンに、年季の入った脚立を椅子にして、刺身と酒瓶を目の前に広げる。
お酒を飲んで、酔っ払ったら、いつもより世界が早くまわって、目も回る。仕舞っておいた記憶が、ぐるぐるまわる。
彼のお家にあった、すこし高級な、瓶に入ったお醤油とか、桜貝を閉じ込めたみたいなちいさな岩塩のこととかを思い出した。わたしの知らない生活の豊かさが、いつもそこにはあって、いつもそこは暖かかった。
換気扇がぐるぐる回って、時計の針がぐるぐる回って、気が付いたら24時まわった。ダンスパーティーが、盛り上がる頃。
みんなはそれぞれ、愛すべきものの手を取って回り出す。ワンツースリーの合図で生活という名のダンスを踊る。わたしは、だれかの手を取ることも、みんなと同じ合図で踊り出すことも、上手なターンも出来ない。くるくる回るみんなの邪魔にならないように、わたしは誰にもバレないように左に右に、すこしだけ揺れてみる。
ダンスパーティーの終盤、手を取り踊り狂った人々は少しずつ姿を消してゆく。わたしはまだ、誰にもバレずに揺れ続けている。綺麗とはいえないキッチンで、ひとり音楽をかけて、揺れている。
彼が鼻歌でうたってた曲が流れた。わたしは時々、彼の鼻歌を思い出しては、身体を掻きむしりたくなるような虚しい思いになって、そしてすこし安堵する。彼の声は、いつだってわたしの安心材料だった。しかし、今日は違った。ちょっと前まで鮮明に思い出せた、彼の鼻歌が思い出せなくなっていた。思い出すたび、身体を掻きむしりたくなるようなあの声が、鼻歌が、思い出せなかった。いくら探し回ってみても、欠片のひとつも見つからなかった。彼がわたしをなんて呼んでいたのかも、吸っていた煙草の銘柄も、誕生日も、思い出せなかった。
お酒を飲みすぎたから、踊り狂う人々が眩しすぎたから、換気扇の音がうるさすぎるから、色々な理由を探した。でも、多分どれも違う。彼とわたしが他人になるには、充分すぎるほどの時間が経過したのだ。
ひとつだけ、思い出した。彼の家で、あの瓶に入ったお醤油とか、桜貝を閉じ込めたみたいな岩塩のある、あの家で、わたしと彼は踊ったことがあった。クリスマスの夜に、2人の好きな映画を観た。ダンスを踊るシーンの真似をして、彼はわたしの手を取った。そしてわたしたちは、出鱈目に踊った。
わたしは、酒を煽ってひとり踊った。誰にもバレないようにこっそり揺れるのでなく、今度はちゃんと踊った。クリスマスの夜みたいに。あのとき、彼が手を取ってくれたみたいに、わたしはいつか誰かの手を取れるだろうか。
此処には、大きなクリスマスツリーも、高級な調味料もない。綺麗とは言えないキッチンで、換気扇のうるさいキッチンで、わたしは、ひとり踊り狂った。いつか、手を取って誰かと踊るために、今は独りで。