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栄養になって、めぐっておくれ

今まで和室で寝ていた母が洋室に移ることになり、昔私が使っていた部屋の模様替えをした。
ベッドを動かしたら、だいふくのうんちが現れた。カピカピで、7個もある!

この部屋はだいふくの部屋んぽと介護部屋として使っていたから、わずかな隙間にうまく落ちていたらしい。
丁寧に拾い集めて爆笑した後、しみじみとうんちを眺める。「大きくてしっかりしてるから元気なときのやつだね」「立派だ」「懐かしい」「確かによくここらへんでうんちしてた気がする」
火葬後の骨がかわいかったのに加え、ホコリまみれのカピカピうんちもかわいい。ひっそり涙が浮かぶ。

ひとしきり愛でたうんちはベランダと窓際の植物の根元に置く。栄養になって、めぐっておくれ。

私はずっと、うっすらと、誰かに救ってもらおうとしている。ということに気づいた、認めた。

久々に会う友人に転職について相談しようと、前日まで張り切っていたが、当日話していると漠然とした言葉しか出てこず、相談できるほど悩めていなかったことが判明した。
ひとが相談をするときは答えが決まっていて、あとの一押しが欲しいだけとよく言う。確かに、そこまで考えを詰めていなければ、それは相談ではなく、ぼやきでしかない。
情けない。自分の浅はかさが目の前に現れて、恥ずかしくなる。

「あなたにはこういう働き方が合うんじゃないか!」「あなたにはこういう良いところがあるからそれを活かすべきだ!」とかを求めていたんだろう。
自分に才があると思いたい、あると言われたい、誰かに導いてほしい、正解を与えてもらいたい…そういう欲が見え見えだ。そんな都合の良いことがあるわけがないのに!図々しい!

自分を救う、決断する、自分のことを悩む、考え尽くしてあげれるのは自分だけだ。他者は励ましてくれるし、勇気をくれるけど、誰かの人生に具体的に介入するのは過干渉になり得るし、責任をとってくれるわけじゃない。

すごく落ち込んで具合が悪い、吐き気がする…。なにもやりたくない。全部怖い。
今と違うことをしようとしている、ということは変化を起こそうとしている、変化はポジティブもネガティブもストレスになる。今、私はストレスを感じている。ビビり倒して逃げ場所を探している。それでいながら、なんとか変わりたいと思っている。怖くて、気持ちが不安定になって、具合が悪くなって当然だ。ゲエゲエしながらそれでも探していくしかない。辿り着かない限りは苦しいままだろうし。
いや、きっと辿り着いてもどうせ苦しい、でもやりたいと思うことはやったほうが良いのは知ってる。

とりあえず0じゃなく、0.1の行動を重ねていくしかない。頭の中にどれだけ高尚な思いがあっても、出力しない限り、それは0だ。
現状0.1さえ無理だけど、0.01を諦めず焦らず投げ出さずに、重ねていくしかない。吐きながら、泣きながら。こわいことばかりでいやになる。

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