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ゆらめくカーテン

修道士カドフェルの小説を図書館で借りて読んでいる。全21巻。月に4冊ずつ書庫から出してもらっていた。
9月初めの日に、20、21巻を借りた。雨宿りのファミレスで我慢できずに表紙を開き、登場人物の欄を見てにっこりする。シリーズ物の醍醐味、ここに極まり!的な、あ〜読んでてよかった!という、気持ちがふわっときらめくような、体温が少し上がって自然とゆるむような、そんな感覚になる。まだ読んでいないのに幸せになるなんて、すごいな。私は物語を読むのが本当に好きなんだなと、改めて思う。

作者は次作に取り掛かり始めた頃に亡くなってしまったらしい。いかにもフィナーレ!という区切りの良さだったので驚いた。でも確かに、元助手への告解や王位継承争い、新しい命の誕生など、描かれるべきものが沢山残っている。
続きを読めないのは悲しいけど、別作品の解説に記載されていたことで偶然に30年ほど前(原著は50年前)の作品に出会い、がっつりハマり、ここまで楽しませてもらったことに感謝したい。そして、20年前に出た新装版も今では購入が難しく、図書館に蔵書があったことにも感謝。新装版の表紙が美しいので、中古でなんとか揃えていきたい。

ぐずぐずと具合の悪い日が続く。隙あらば寝ている。転職への現実逃避だ、多分、絶対に。
頭の中でどれだけ立派なことを考えていても、行動や言葉にして外部出力しなければ、それは存在しないのと一緒だ。動きたい。動くぞ。

死ぬって、ほんとにずっと死んでるんだな、と思った。生き返ったり夢に出てメッセージをくれたりまた巡り会ったり、そういうのあるのかとぼんやり期待してた。それか決定的な出来事があって立ち直ったり区切りがついたり受け入れたりするんだと思ってたけど、そういうこともない。ずっといない。ずっと寂しい。死んでから、ずっと死んだままだ。

祖父母はみな亡くなっていて、伯父や高校のクラスメイト、友人の家族、友だちと暮らしていた犬ネコちゃんが亡くなったこともある。幼少期に兄が捕まえたカブトムシはそっと虫かごで息絶えて、気付いたら家にいたカメや金魚はしばらくしたら外へ放していたのか、気付けばいなくなっていた(振り返ると酷い話で思い出す度に嫌な気持ちになる)。
だから、一緒に暮らしていたという実感がある存在が亡くなったのは初めてだ。そのせいか死の解像度が著しく低いのかもしれない。自分の死を経験することは出来ないし、そもそも答えもないだろう。解像度が上がることはなさそうだけど、別れが増えていけば受け身の取り方もわかってくるのかな。どうやったら悔いなく死と付き合っていけるんだろう。

芋虫が大きな道路を横断しようとしていたら棒で挟んで生垣に連れて行ったり、死んでしまった蜂が踏み潰されないよう土のある場所へ移したり、ゆっくりゆっくり散歩しているご老犬に微笑み、驚かせてしまったスズメに謝ったり、鳥類や爬虫類など犬猫に比べ少数派の生きものを可愛がるひとの様に共感するようになった。そういうときに頭を過ぎるのは死んでしまった、ずっといない、だいふくのことだ。

だいふくが旅立って1年が経ちました。さみしくて不安定でぐちゃぐちゃで苦しくて、それでもなんとか生き延びることができました。
私はきみと出会えてとても幸せで、自己嫌悪で何も出来ない日々をきみのおかげて乗りきることができ、きみと暮らして新しい感情が芽生えたことを自覚し、きみの不在により生死についてよく考え、よくわからなくて、でも考えることをやめられなくて、それも含めて、これからもきみのことを想い続けるのでしょう。

少し前までは写真や動画を見ると泣いてばかりいたけど、最近は可愛いなと自然に笑えるようになりました。それと並行して、細かなことを思い出せなくなっている気がします。
千と千尋の神隠しでの台詞のように、ただ思い出せないだけで忘れることはないと思って、心配はしていません。でもなんとなく薄情な気がして後ろめたさがあり、時折記憶を深くたどっています。

砂浴びのあとのにおいも冬毛のふわふわも、甘噛みの強さもヒゲのくすぐったさも、おなかのあたたかさや怒った声もぷくぷくの手も寝息の音も、無くなりはしません。
やわらかい陽射しを見ては日光浴してきらきらのきみを、雨風の強い日は膨らんでムンとしているきみを、寒いときはヒーターで溶けてるきみを、暑いときは冬毛がふわふわ抜けていくきみを、風の通る日はゆらめくカーテンを見つめるきみを、明け方には一緒のベッドで眠ったきみを、夕暮れには寝床でくるりと丸まるきみを、これからも、ずっと、そっと撫でさせてください。

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