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宗教を求める人は弱い人なのか

大学の講義で宗教学を受けています。去年落としたの😇リベンジです。
久しぶりの心理学アウトプット。

宗教を学ぶというと信仰を深めるための学びのようなイメージですが、
特定の価値観ではなく、中立的な立場で学問として宗教を理解しようという講義です。

宗教とは、超自然的な存在や力、神聖なものに対する信仰と、そこに基づく教義、儀式、倫理的な実践を指します。

多くの宗教は、神や超自然的な力、魂や霊といった存在を信じます。これらの存在は世界の創造や運命、道徳的な規範に影響を与えるとされています。
一つの神を信仰するキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、多神教の宗教にはヒンドゥー教、古代ギリシャ宗教などがあります。

信仰やスピリチュアルな追求は非常に個人的なものであり、その理由は多種多様。


日本は、諸外国と比べて宗教的な熱心さが目立ちにくい国の一つといえます。
これは、日本の宗教的文化や歴史、社会的背景に深く関わっています。

まずは宗教の多元性です。日本では、複数の宗教的要素を取り入れることが一般的です。
神道の儀式(七五三やお食い初め)を行いながら、仏教のお葬式を執り行う方が多数です。私もそうですし、神棚もお仏壇もあるご家庭、結構あると思います。

多くの方がお寺や神社に参拝するという宗教的な儀式を行なっているものの、自分を宗教的だとは感じていない。日常の一部として自然に溶け込んでいるのですね。
何なら何の神様に祈ってんだか分からずに神社とか行ってる方もおられるでしょう。若かりし頃は、初詣というよりカウントダウンイベントでしたし、あけおめー!ことよろー!ウェーイ!ってしながら人が多そうで露店が沢山あって楽しそうな場所選んで増したもん、私。多分一緒に行ってた友人も。
平安神宮、八坂神社、受験の時は天神さん、かと思えば氏神さん、行ったことないとこ行こうせ〜みたいなノリでした。

(脱線)

そして、戦後の憲法で信仰の自由が保障されています。宗教と国家は明確に分離されていて、公的な生活に大きな影響を与えることは少なく、政治や教育の場で大きな役割を果たすことはありません。

対して、アメリカや中東、南アジアの一部の国々では、宗教が非常に重要な社会的・個人的要素となっています。アメリカではキリスト教が強く根付いており、教会に通うことや信仰が社会的にも重視されます。
イスラム教徒が多い国々では、日常生活に宗教が深く関わっており、礼拝や断食などの宗教的実践が強く求められています。ドバイに行ったとき、びっくりしました。

日本では、オウム真理教による事件の影響もあり、新興宗教やカルトに対する不信感が広がっています。そのため、宗教に対して慎重な姿勢をとる人が多く、熱心な信者というイメージに対して距離を置く傾向もあります。

新興宗教やカルトとされるグループに深く関わる人々もおられますが、その背景や理由は一概には言えません。

人は時に、不安や孤独、人生の困難に直面すると、安心感や意味を求めて宗教やスピリチュアルな信念に惹かれます。
心理的な安定や、人生の問題に対する解決策を提供すると感じるために参加することもあるでしょう。特定の宗教グループは、強いコミュニティ意識や結束感を提供します。

社会や家族からの孤立は、帰属感を強く求めます。「自分の居場所」を見つけようと、外部から見ると違和感のある思想や習慣に順応することがあります。更にそういったグループには非常にカリスマ的なリーダーが存在することが多いです。自分を正当化する魅力的な話術や理論を持ち、信者を惹きつけるのでしょう。


では、宗教を求める人は弱い人なのか。
決してそんなことはありません。

「弱い」という抽象的な言葉をどのような視点によって捉えるかで異なる答えとなりますが、強さも弱さも持っている非常に複雑な存在が人間です。

誰しも「自分の力だけではどうしようもない」という経験は、あるはずです。

そもそも人はそんなに強いものなのか。人というのはちっぽけで弱いんだということに気が付かないといけないのだと、講義の中で先生はおっしゃっていました。

宗教を学ぶことは人間を知ることなのだと言う言葉で講義が始まりましたが、引き続き学んでいきたいと思います。

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