かわいそうじゃないと決める
自分をとても冷酷な人間なんじゃないかと思うことがよくある
終末期の子どもたちと家族に日々向き合って
へこたれそうな日がないと言ったら嘘になるけど
・・・
いやあまりないのかもしれない
しんどくても、ちゃんと回復して、飯を食い
毎日笑って、ときどき泣いて、ふつうに生きている
しまいには人んちで歌っていたりする
本当に冷たい人間だというウワサはさておき
そんな自分のきもちの置き方を因数分解してみたりして
強く意識していることに気づいたので言語化してみる
ぼくは彼らのことを
「かわいそうじゃないと決めている」
かわいそうと思ったとき
ぼくは彼らと違う場所にいる気がする
それが上なのか下なのかはわからないけど
ぼくはできる限り同じ高さにいたい
かわいそうと思うことをやめるんじゃなくて
(そんなのやめられっこない)
心は揺れてたくさんかわいそうって思う
でもそこで終わらせるんじゃなくて
かわいそうと思った自分に、その瞬間に、
絶対にかわいそうじゃない
って思える自分を置いておく、ことを「決めて」いる
そう決めたら
たとえ彼らの現実が本当に過酷であったとしても
どれだけ時間が限られていたとしても
彼らの生きたきたこと、生きている今、に1mmでも光を当てて
照らしていたいと思えて、顔を上げていられる気がするんだ