散歩考・生の触感

昼、久しぶりに外を歩いた。
日の影になるところは肌寒いものの、ひとつ道を抜けるとぼんやり暖かくて、近所の家の松はついに雪吊りを外されていた。わたしは寒椿こそが最も美しい冬の花と思っているので、路上にくずおれた椿をみるにつけて今季は雪も積もらず咲く甲斐もいまひとつの年だったことに同情心を覚えてしまうが、ともあれ早春ここに来たると思うほど気持ちのよい陽気だった。


久しぶりに、というとまるで家に閉じこもっているようだが実際のところほとんど毎日外へは出ている。無論仕事にも行っているので、問題はどこへ行くにも車を使ってしまうということ。車を運転するのは好きだし、なにもかもが点在している田舎では目的地へ効率よく行くのにとても便利なんだけど、ただ本当にそれだけという感じなんだよなあ。

自分の足で外を歩く時間、暮らしの実感を得る上で必要なことだなと思う。季節の風の温度とか、室外機の上の猫だまりとか、店先の変な看板とか、車だと一瞬で通り過ぎてしまって気付きもしない色々を取りこぼしながら生きてるのは勿体ない。効率とは反対のところに趣ってあるものね。

今回も外を歩いていて、新築の家の工事が進む通りに立ったとき、切りて積まれた木材のいい匂いがあたりに漂っていてつい立ちどまって深呼吸した。


思えば刈りたての芝の匂いも好きだし、洗っただけの生野菜の青い味わいも好き。生といえば、肉や魚もできることなら火を通さずに食べたい欲がある。そのままの味、美味しいか美味しくないかを聞かれると舌が貧相なので正直よく分からないが、いちばん食べてる感があっていい。「生の触感」とでもいうのか、草木の匂いも生物の味も、てらいなく生きてる姿が浮かぶようで心地が良いのかもしれない。

暮らしの実感を〜〜とかなんとか書いたけれども、わたしが散歩で得たいのは「生の触感」だな。のんべんだらりと生きている自分への肯定が欲しい。そして同じく、どうしようもなく過ぎていく日々の暮らしを祝福したい。
こう考えると、あらためて車の出せるスピードというのは、およそ人間の生きるにふさわしい速度ではないなと思う。便利さに負けて、日常の機微を忘れないようにしないとな。


あと色も風情もない実害的な意味では、歩くことに慣れていないと徒歩で行ける距離とそれにかかる時間を見誤りがちなので、いざというときに困るという。Googleマップは信用ならないから(大方わたしの歩くのが遅いせいなんだろうけど、酷いときにはプラス10分近い誤差が出る)、時間と気持ちの余裕を持って歩くこととしよう。

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