逆襲のバスク 第5章 怒涛編
歴史ストラテジーゲーム『Europa Universalis IV』のプレイ結果を年代記風に脚色したAAR(リプレイ)です。以前、個人サイトに掲載した内容に大幅な加筆・修正を加えました。
本文中の出来事は「歴史家の評価」も含め、すべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。
これまでのあらすじ
かつて大国の狭間で翻弄されていたナバラはついに帝国となった。
旧大陸と新大陸の交易を支配することで蓄積した莫大な富を背景に、ナバラ帝国はアンデス山脈とイベリア半島を次々に征服。二度の対仏大同盟を主導し、その国力は今や世界最高水準にあった。
しかし、不敗を誇る帝国の前に常勝の帝国が立ちはだかる。
レオノール1世の治世
Leonor I de Navarra(統治3、外交2、軍事1)
1736年
ナバラ帝国初の女帝となったレオノール1世は脆弱な権力基盤を強固なものとするため、先帝と皇后の間に生まれた腹違いの弟エンリケを後継者に指名し、共同統治体制を敷いた。
1738年
レオノール1世はあらゆる分野の学者と官僚を集めると、帝国の有する莫大な富を人類の発展のために用いるよう命じた。激しい議論が交わされた結果、国家事業としてパナマ地峡に運河を建設することが決定した。
1739年
ボヘミアがオスマン帝国に決定的な敗北を喫した。以後、ボヘミアは没落の一途を辿る。同年、デンマークがスカンディナヴィア帝国成立を宣言した。
1741年
ナバラ帝国が傀儡ガスコーニュ公国を併合。この年、ナバラ帝国で初めての近代的な炭鉱が開発された。
1743年
共同統治者エンリケが急死。享年29歳。レオノール1世は10歳年下の貴族テオバルドを夫に迎え、もう一人の腹違いの弟フランシスコを新たな後継者に指名した。
レオノール1世はポルトガル政府に圧力を掛けてカスティーリャとの同盟を破棄させると、孤立無縁となったカスティーリャに宣戦布告した。
攻撃側:ナバラ、イングランド、チュニス
防御側:カスティーリャ、他
1746年
ナバラ帝国はカスティーリャに勝利し、地中海の島々と喜望峰植民地を獲得した。カスティーリャ国王はヨーロッパを逃れ、東アフリカの小島に落ち延びた。
同年、ナバラ帝国で初めての溶鉱炉が稼働した。本格的な産業革命の始まりである。ナバラ商人は旧大陸にも支配力を広げつつあり、この年ワイン市場を独占した。
1748年
着工から11年を経てついにパナマ運河が完成。完成までには疫病など数多の障害を乗り越えなければならなかった。パナマ運河は新時代の象徴であり、ナバラに不可能はないことを示す記念碑となった。
1750年
オスマン皇帝ムスタファ4世が主導するオスマン、ロシア、イングランドの連合軍が、オーストリア率いるドイツ諸侯連合に勝利。オーストリアはヨーロッパの全領土を失った。この三国同盟はその後も長く継続することになる。
1752年
女帝レオノール1世は政務を大臣たちに任せると、より高度な知的活動に関心を寄せた。身の回りの物理世界を理解するため国内外から学者を招聘したのである。
1753年
夫テオバルド死去。享年31歳。わずか10年の結婚生活で訪れた別れだった。
1754年
レオノール1世は包囲網を敷くとフランスに宣戦布告した。第三次対仏大同盟である。ナバラ側の戦力は陸軍で5倍、海軍で4倍と、フランスを完全に圧倒していた。
ナバラ軍は緒戦こそルイ14世率いるフランス軍に翻弄されたものの、すぐさま体勢を立て直してこれを撃退。フランス王は残存兵力をまとめると国外へ姿を消した。
攻撃側:ナバラ、イングランド、ロシア、チュニス、他
防御側:フランス、他
1756年
世界各地でフランス軍の抵抗が下火になる中、ルイ14世率いるフランス軍主力が突如ナバラの喜望峰植民地に侵入した。
反乱鎮圧のため駐屯していたナバラ軍3万人は逃げる術がなく、兵士たちは現地指揮官の命令で自ら命を絶った。いわゆる喜望峰事件である。
この年、フランスがナバラに無条件降伏。フランスは本国領土の大部分を失い、ノルマンディー公国とブルターニュ公国の分離独立を承認した。
1757年
学問にしか興味がないと思われていた女帝レオノール1世は庶民の男と恋に落ちた。彼女は貴族たちの反対を押し切り、若い恋人エンリケと二度目の結婚をした。
1760年
オスマン皇帝ムスタファ4世が主導するオスマン、ロシア、イングランド連合軍がハンガリーを滅ぼした。
この頃、女帝レオノール1世はナバラ帝国の財力を最大限に活用し、各国への資金援助を通じて経済面から対オスマン包囲網を形成しようと試みていた。ナバラの同盟国は8カ国に及び、フランスから分離独立させた2国もナバラの属国となっていた。
1767年
ムスタファ4世率いるオスマン帝国がイングランドと共にボヘミアへ宣戦布告した。これに対し、ナバラの同盟国の一部がボヘミア側で参戦。帝国ではオスマン討つべしとの声が上がるが、女帝レオノール1世は静観の構えを崩さなかった。
この年、落日王と呼ばれたフランス王ルイ14世が失意の内に没した。
1771年
ボヘミアがオスマンに降伏。オスマンの脅威はナバラの目前に迫った。戦争参加国はことごとくナバラとの同盟破棄を強要され、ここにレオノール1世の対オスマン包囲網は瓦解した。
1774年
急激に勢力を拡大したポメラニアがプロイセン王国の成立を宣言した。
1781年
レオノール1世の腹違いの弟フランシスコ死去。享年64歳。フランシスコの嫡子はすでに他界しており、次の後継者には孫のエンリケが選ばれた。
1782年
3代皇帝レオノール1世が崩御。高齢による自然死だった。享年70歳。彼女の死は一時代の終わりを告げた。後継者エンリケはまだ幼く、53歳の夫エンリケが摂政となった。
歴史家の評価
レオノール1世は産業革命を推進し、パナマ運河を建設し、第三次対仏大同盟を主導した。これだけの偉業を成し遂げながら、彼女は生涯「不貞の子」と呼ばれ続けた。その治世の後半は前半ほどの輝きが見られず、オスマン帝国に対する態度はむしろ消極的とさえ言えるものだった。
彼女は統治や征服より学問を愛し、啓蒙専制君主として歴史に名を残した。レオノール1世はその治世を通じて、あらゆる種類の知的探求に大きな関心を示したが、彼女自身が学者としての名声を得ることは叶わなかった。彼女は自身を評して「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです」と語ったと言われる。
いわゆる「喜望峰事件」について、自決命令が現地指揮官の独断だったか、レオノール1世の関与があったかについては、現在でも歴史家の意見が分かれている。
レオノール1世は没落したオーストリア大公に代わり、神聖ローマ帝国皇帝となるべく選帝侯に働きかけたことがある。しかし、選帝侯は口を揃えて「女性は神聖ローマ皇帝として不適格である」と返答した。それを聞いた彼女は激怒したと伝えられる。
エンリケの治世
Enrique de Navarra(統治4、外交4、軍事4)
1782年
女帝の死後、摂政エンリケが最初に行ったのは奴隷制度の廃止だった。そのあまりに革新的な政策は国内のみならず全世界に大きな衝撃を与えた。
1783年
摂政エンリケはフランスに対して宣戦布告した。第四次対仏大同盟である。ナバラ側の戦力は陸軍こそ3倍であったが、海軍は5倍に及んだ。
攻撃側:ナバラ、イングランド、ネーデルラント、他
防御側:フランス、他
1785年
戦争がナバラ側の圧倒的優位で進む中、ナバラ軍の占領下にあるフランス本土では政治犯の収監される牢獄が群衆に襲撃された。騒乱は瞬く間にフランス全土に飛び火し、民衆は戦争の終結と国王の特権廃止を求めた。
1787年
フランスがナバラに無条件降伏。フランスは大陸領土に加えてブリテン島の領土をすべて喪失し、ブリテン島北部にはゲール王国とスコットランド王国が誕生した。
同年、フランス革命が成立。フランス国王ルイ15世は国を滅ぼした大罪人とされ、逃亡先のアフリカでギロチンの露と消えた。
1790年
オスマン皇帝ムスタファ4世が主導するオスマン、ロシア、イングランドの連合軍が教皇領に勝利。北イタリアとローマは異教徒の手に陥ち、オスマンはナバラと国境を接した。
1793年
摂政エンリケ死去。享年64歳。皇太子エンリケはまだ11歳であり、ナバラ帝国は有力貴族による合議制へと移行した。
歴史家の評価
小エンリケと呼ばれる摂政エンリケの治世は短かったが、奴隷制度の廃止とフランス革命という歴史上重要な事件が起きたことは注目に値する。
エンリケはある種の理想主義者であり、完全な世界を目指していた。しかし、ヨーロッパの反対側ではオスマン皇帝ムスタファ4世が旧秩序を次々に破壊していた。
貴族評議会の時代
1794年
オスマン皇帝ムスタファ4世が主導するオスマン、ロシアの連合軍が、神聖ローマ皇帝を兼ねるコモンウェルスを滅亡させた。コモンウェルスの滅亡をもって神聖ローマ帝国の滅亡とするのが通例である。
この年、ナバラ商人が魚の交易で世界市場を支配した。
エンリケ3世の治世
Enrique III de Navarra(統治3、外交1、軍事3)
1796年
4代皇帝に即位したエンリケ3世が最初に命じたのは、異教徒からの保護を名目とした教皇領への侵攻だった。
攻撃側:ナバラ、他
防御側:教皇領
1798年
ナバラ帝国が勝利し、神聖ローマ帝国に続いて教皇領もヨーロッパの地図から姿を消した。近世が終わり、近代が始まろうとしていた。
この年までにナバラ帝国はノルマンディー公国とブルターニュ公国を併合。フランスから独立させたゲール王国、スコットランド王国も従属させた。
1800年
ロシアがスカンディナヴィアに宣戦布告。ロシア側にはオスマンが、スカンディナヴィア側にはイングランドが参戦し、ついにオスマン、ロシア、イングランドの強固な三国同盟が崩壊した。
この年、オスマン皇帝ムスタファ4世が死去。享年73歳。常勝と謳われた皇帝が53年間の治世で滅ぼした国は数知れず。全ヨーロッパを恐怖のどん底に陥れた。
1802年
エンリケ3世はスカンディナヴィアに圧力を掛け、イングランドとの同盟を破棄させた。さらに、ナバラがイングランドに諜報員を潜入させていたことが発覚すると、イングランド政府は国内世論に抗しきれず、数百年にわたって続いてきたナバラ帝国との同盟を破棄した。
皇帝エンリケ3世はすぐさまスコットランドの旧領回復を名分にイングランド侵攻を命令。両者の戦力は陸軍においても海軍においても完全に拮抗していた。
攻撃側:ナバラ、他
防御側:イングランド、他
1803年
ナバラ帝国のイングランド侵攻に反発する諸外国は結束してナバラ包囲網を形成。反動により帝政となったフランスを含め10カ国が名を連ねた。
この年、ナバラとイングランド両軍合わせて600隻を超える艦艇が参加した大海戦が発生。海軍史にその名を残すアイリッシュ海海戦はイングランドの勝利に終わった。
1804年
大海戦に勝利したイングランドであったが、スコットランドから南下したナバラ軍に首都ロンドンを占領され降伏。
戦争終結を受けてナバラ包囲網はあっけなく瓦解し、イングランドからバミューダ諸島を獲得したナバラ帝国は悲願であるカリブ海の統一を果たした。
この年、毛織物市場をナバラ商人が独占する。すべては産業革命の賜物であった。交易から得られる収入は国家予算の60%を超えていた。
1807年
ナバラ帝国がゲールとスコットランドを併合。これによりブリテン島北部が帝国の版図に組み込まれた。
この年、プロイセンがオスマンとロシアに挟撃され敗北。オスマンの脅威に対抗できる国はもはやナバラしか残されていなかった。
1809年
オスマン帝国各地で帝政廃止を求める民衆が一斉に蜂起。その数は37万人に及んだ。エンリケ3世が密かにオスマン国内の革命家に資金を提供した結果である。エンリケ3世は全軍に臨戦態勢を命じると、革命の成り行きを見守った。
翌年、革命はオスマン軍によってすべて武力鎮圧され、エンリケ3世は軍事介入を断念した。ヨーロッパを二分する大戦は幻に終わったのである。
1815年
カスティーリャの北米植民地がフロリダ公国を名乗り独立を宣言。指導者の名はフアン2世で、くしくも旧ナバラ王朝最後の国王と同名であった。
この頃、ナバラ帝国は世界中の植民地独立運動を支援していた。フロリダもその一つであり、かねてよりの約定に従いナバラはフロリダ独立戦争に介入した。
攻撃側:フロリダ、ナバラ
防御側:カスティーリャ、他
1820年
フロリダはカスティーリャから独立を勝ち取り、立憲君主制国家アメリカ合衆国となった。初代アメリカ国王には弱冠25歳のフアン2世が即位した。
歴史家の評価
大エンリケことエンリケ3世の治世はまだ続くが、アメリカ合衆国の誕生をもって近世の終わりとする通例にならい、ここで筆を置くことにする。
エンリケ3世の前半世は、教皇領の解体、対イングランド戦の勝利、アメリカ合衆国の独立成功と栄光に彩られている。しかし、その間にもオスマン帝国は周辺諸国を侵略して勢力を拡大しており、彼はついにその勢いを止められなかった。オスマン国内で革命運動を扇動するも、本格的な軍事介入を躊躇したことで革命は失敗に終わり、いたずらに犠牲を増やす結果となった。
エンリケ3世が独立を支援したアメリカ合衆国は、その後北アメリカ全域に版図を広げた。100年後、ナバラ帝国陣営とオスマン帝国陣営の間で世界を二分する総力戦が勃発。両陣営が共に疲弊したのちアメリカ合衆国が超大国として台頭することになるが、それはまた別の物語である。
最終結果
統治技術:レベル32(四圃式農業)
外交技術:レベル32(金本位制)
軍事技術:レベル32(野砲)
アイデア:探検7、拡張7、軍量7、交易7、経済7、外交7、軍質7、諜報7
列強順位:2位(1位:オスマン)
陸軍順位:2位(1位:オスマン)
海軍順位:2位(1位:イングランド)
収入順位:1位
交易収入:1000ダカット/月
交易首位:タバコ、砂糖、ココア、コーヒー、ワイン、魚、衣類、金
戦争勝敗:27勝0敗
(逆襲のバスク 完)
あとがき
最後までお読みいただきありがとうございました。本作の初出は2019年で、4年も前のことになります。加筆・修正を加えてリメイクするにあたり当時のメモを読み返しましたが、本文に書かずに省略していた情報が山のように見つかりました。その中から、君主の性格に関する情報を抜粋してご紹介しましょう。
新生ナバラ王国の初代国王エンリケ2世は豊富な縁故の特性を持っていました。さまざまなコネを駆使して外交交渉を成功させるくだりは、その性格を反映したものです。
ナバラ帝国初代皇帝フランシスコ1世は邪悪の特性でした。なんのためらいもなく征服戦争を仕掛けるのは、当時この性格をロールプレイしていたためです。新たに追加した肖像画も邪悪な雰囲気を漂わせるものを選びました。
今回登場した女帝レオノール1世は学者の特性を持っていました。これはわかりやすいですね。本作に詳しい方なら読んでいる途中で気がついたかもしれません。
『Europa Universalis IV』はストラテジーゲームですが、このように君主の性格をロールプレイしたり、AARを書いたりすると、また違った面白さが見えてきます。興味を持たれた方はぜひ一度お試しください。
最後に、ゲーム終了時の世界を眺めてみましょう。まずは、ナバラ帝国の首都がある南北アメリカ大陸です。
没落したとはいえ、フランスやポルトガルはまだ広大な植民地を維持しています。しかし、ナバラに後援された独立運動は激しさを増しており、アメリカ合衆国の成立をきっかけに雪崩を打って本国から自立を図るでしょう。
次は、ヨーロッパ、インド、中東、アフリカです。この世界ではティムール帝国が復活を遂げ、最後まで生き残りました。アフリカ中部には中盤に登場したクバ王国が健在です。さらにその隣には革命フランスが確認できます。
続いて、ユーラシアとオセアニアです。物語には描かれませんでしたが、ナバラはオーストラリアとニュージーランドに植民地を築いていました。中盤で明の侵攻を受けた日本も健在です。
最後に、ここまでの物語を動画で振り返りながら筆を置きたいと思います。次のAARでまたお会いしましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました! よろしければ投げ銭をお願いします。