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ロシアは平等主義の夢を見るか?#1

歴史ストラテジーゲーム『Victoria 3』のロシア平等主義社会の実現に挑戦したAAR(リプレイ)です。広大な国土と莫大な人口という課題を克服するため、今回は連邦化という戦略を採用しました。

本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。


前史

1825年、皇帝専制ツァーリズムの打倒を掲げて蜂起したデカブリストの乱は瞬く間にロシア全土に拡大。即位したばかりの皇帝ニコライ1世は乱を鎮めるため、自由主義改革の推進と自治権の拡大を約束しました。

それから11年。貴族会議の抵抗で改革が頓挫する中、権威を失墜した帝国の中央集権体制は崩壊しつつありました。ここに至り、ロシア帝国は連邦制への移行を余儀なくされます。

皇帝ニコライ1世。史実では皇帝専制の象徴のような人物。

陛下の勅書にある“連邦フィヂラーツィヤ”とはいったいなんのことだ。自治権の拡大など論外ではないか。帝国の命運もこれまでだ。

ロシアの貴族

あの傲慢な皇帝がついに屈した。狼どもに引き裂かれて40余年、間もなくポーランドが蘇る。祖国万歳!

ポーランドの貴族

はじめに

最初から少々強引な歴史改変をしましたが、今回のプレイでは連邦制のロシアで平等主義社会ジャーナルの完全達成を目指していきます。

平等主義社会ジャーナルはゲーム開始時の目標で「平等主義社会」を選択すると有効になります。複数のジャーナルで構成され、完全達成するには次々に現れるジャーナルをすべてクリアしなければなりません。

ロシアは「平等主義社会」の推奨国家ですが、難易度の高さは折り紙つき。推奨されているのはなにかの間違いでしょう。

同じく推奨国家の大清(中国)も難易度は非常に高い。

なお、今回のプレイでは次のハンデをつけています。

  • 鉄人モード(セーブ・ロードが自由にできなくなります)

  • プレイヤーへのAIの態度は「無情」(外交交渉や外交戦が難しくなります)

世界のバランスを崩さないため、AIの好戦性は標準のまま。

第1章 ロシア連邦の誕生

連邦制の利点

今回のプレイの基本戦略はロシアの連邦化です。そこで、ゲーム開始直後にポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、極東の5カ国を傀儡国として解放しました。東欧とウラル山脈以東をロシアから切り離したのです。

東欧とウラル山脈以東を分離して連邦制に移行したロシア。

この戦略にはいくつかの利点があります。

第一の利点は、平等主義社会を実現する上で最大の課題となる広大な国土と莫大な人口を削減できることです。連邦化の前後でGDPは5割減少、人口は4割減少しました。

国力の低下を心配する方もいると思いますが、連邦化した後も市場は統合されたままですし、減少したGDPの一部は傀儡国からの収入で補えるので、大きな問題にはなりません。列強の座も維持したままです。

連邦化には外交メニューの「従属国の解放」を利用した。

第二の利点は、解放した従属国が周辺諸国との間の緩衝国になることです。連邦化した後のロシアはオーストリアやプロイセンといった列強と国境を接していません。そのため、友好関係を築きやすく、戦争になっても従属国を巻き込まなければ本国に攻め込まれることはありません。

最後の利点は、ロシアの勢力圏が最初から持っている「属国化」の原理と相性が良いことです。この原理には従属国の数に応じて権力と収入を増加させる効果があります。権力が増えればそれだけ多くの布告が出せるようになるので、今回の目標の一つである識字率の向上に役立ちます。

従属国の数に応じて権力と収入が増加していく。

序盤の改革

社会改革は貴族会議(地主)を中心に進めました。利益集団の5割の勢力を持つ貴族会議の影響力は無視できませんし、皇帝ニコライ1世も貴族会議を支持しているからです。

貴族会議に他の利益集団を組み合わせては入れ替えることを繰り返しつつ、社会運動を利用して緩やかに貴族会議の力を削いでいきました。

  • 1837年 専門的な警察機構

  • 1838年 法的被後見(貴族会議の請願)

  • 1841年 文化的排斥(社会運動)

  • 1842年 慈善病院

  • 1846年 小作農(社会運動)

  • 1848年 救貧法

  • 1849年 宗教学校

  • 1853年 土地所有者投票(社会運動)

1836年の利益集団。貴族会議が圧倒的な勢力を誇っている。

ニコライ1世の改革はあくまでも「上からの改革」であった。しかし、その原動力となったのは力なき民衆の声であり、そこには近代ロシア民主主義の萌芽が見て取れる。

ロシアの歴史学者

中でも序盤の成果は、差別を減らす文化的排斥、識字率を改善する宗教学校、政党制に移行する土地所有者投票です。プレイ開始時のロシアの識字率はわずかに15%しかなく、産業革命を進めようにも工場で働ける人材がいない状態でした。学校制度の確立は喫緊の課題だったのです。

しかし、宗教学校と慈善病院の設置は正教会(聖職者)の勢力拡大を招きました。第一回議会選挙では貴族会議と正教会からなる十月党が議席の7割を占め、貴族会議に代わって正教会が国内の最大勢力になっていきます。

1854年の利益集団。弱体化した貴族会議に代わり正教会が台頭。

第一次対英戦争

ロシアはペルシアのアフガニスタン侵攻に介入してペルシアを従属国化。さらに、中央アジアの反乱を鎮圧してステップ総督府を置きました。

コーカサス地方では現地勢力がロシアの支配に抵抗していましたが、ここに目をつけたのがイギリスです。1846年、コーカサスで抵抗を続けるチェルケスを保護国化すべく外交戦を仕掛けてきました。

ロシアの脇腹とも言えるコーカサス地方にナイフを突きつけたイギリス。

こんな場所にイギリスの橋頭堡を作られてはたまりません。それまで敵対していたことは水に流し、ロシアとチェルケスは新たな敵に対して共同戦線を張りました。

チェルケス紛争に介入したのはロシアのみで、従属国は参戦していません。そのため、戦場はチェルケスと首都サンクトペテルブルク周辺のみに限られました。連邦化による緩衝国戦略が役に立ったのです。

ロシア軍とチェルケス軍は協力してイギリスによる上陸を阻み続けた。

それはなんとも形容しがたい光景だった。つい数か月前まで憎しみ合い、殺し合っていた兵士たちが互いに助け合って戦っているのだ。

ロシア軍兵士

しかし、イギリス軍の攻撃は苛烈でした。ロシアのバルチック艦隊は黒海で完膚なきまでに敗北。イギリス海軍の通商破壊戦により貿易網は寸断され、サンクトペテルブルクには繰り返し上陸部隊が押し寄せました。

チェルケス紛争は2年後に白紙和平で終結。事実上の戦略的勝利でした。

ロイヤルネイビーを前にバルチック艦隊は手も足も出なかった。

第二次対英戦争

次にイギリスと対決したのは1851年です。きっかけはイギリスがオランダに仕掛けた外交戦でした。

イギリスはオランダ領東インドの従属国をことごとく譲り渡すよう居丈高に要求。対するオランダはロシアとプロイセンを味方に引き入れ、イギリスの要求を断固拒否しました。

「東インドは一つで十分」とばかりにオランダ領東インドの解体を要求するイギリス。

ロシアは支援の見返りとして、イギリスの持つ条約港シンガポールを要求。先の戦争の反省から事前に首都をモスクワに移し、喜望峰回りでバルチック艦隊を東南アジアに派遣しました。今回も従属国は参戦していません。

ラスボスの風格が漂うヴィクトリア女王。首に鈴をつけるのは誰だ?

シンガポールは開戦から9日後にあっさり陥落。ロシア軍は一部をオランダ領東インドの防衛に残すと、オーストラリアに軍を進めました。

一方、圧倒的な軍事力を誇るイギリス軍は、オランダ、プロイセン、ロシアに対して同時上陸作戦を敢行。自国への上陸作戦を阻止するだけで手一杯のロシア軍は、イギリス軍のオランダ本国上陸を許してしまいます。

タスマニアだけを占領するつもりが、地続き判定のせいで全土を占領する羽目に。

この時、まったく予想していない事態が起こりました。従属国であるバルト総督領(現在のラトビアとエストニア)で革命が勃発。ロシアが体制側で強制参戦させられただけでなく、ロシアと友好関係にあったはずのフランスが革命側に加担したのです。

強敵イギリスとの戦争中になんの前触れもなく新たな強敵が現れました。しかも、革命が起きたのは首都モスクワの目と鼻の先です。戦線の拡大を防げなければ全土が戦火に飲まれます。しかし、本国を守るロシア軍はイギリス軍への対応で手が離せず、フランス軍の対応にあてる余剰戦力は残っていません。これが「無情」なAIの洗礼なのでしょうか。

首都の目の前で起きた革命にフランスが介入。このままでは全土が火の海に。

ロシア軍は即座に東南アジアで戦闘中の部隊に撤退命令を発しました。オーストラリアでは一方的な進撃を続けていましたが、すべてを放り出して本国への帰還を命じたのです。

ロシア軍が一斉に退いて行く。いったい雲の上ではなにが起きているんだ。奴らは勝っていたではないか。

オーストラリア軍士官

ロシア軍が撤退した隙を突いてイギリス軍がオランダ領東インドに上陸。戦況は大きく傾きました。その間にもフランスは大軍をバルト総督領に送り込み、着々と戦争準備を進めていきます。イギリスの上陸作戦は一向に終わる気配がなく、ロシア軍はまったく身動きが取れません。

バルト総督領の革命はついに戦争に突入しました。撤退中の部隊はいまだにコーカサス山脈を越えておらず、到底間に合いません。この時、ロシア連邦首脳部は歴史的な決断を下しました。フランスから戦争の口実を取り上げる秘策を思いついたのです。

アドバンテージはマイナス90以下。このままではフランス軍を止められない!

ロシアは内戦の開始と同時に降伏しました。

まさに究極の選択。この時、最後まで戦い抜いていたら歴史はどう変わったのか。

ロシア連邦はバルト総督領の現体制を見捨てて革命軍と講和。戦争は革命側の勝利に終わり、バルト総督領はバルト連合州に名を改めました。

都合の良い時だけ主人面をして、都合が悪くなったら見捨てるのか。我々はいつか独立を勝ち取るだろう。そして、対等の立場で握手を求めるだろう。

バルト連合州の市民

なにも失わなかったわけではありません。革命軍はフランスを懐柔する条件としてフランスの保護国になる約束をしていました。そのことは降伏する前に気づいていましたが、他に選択肢がなかったのです。

しかし、バルト連合州がフランスの保護国になることは、ロシア市場がフランス市場と地続きになることを意味します。今後はイギリスの通商破壊戦の最中でもフランスと貿易を継続できると考えれば、それほど悪い話でもありません。

時を同じくして、イギリス領東インド会社でも大規模な反乱が発生した。

予想外の事態に見舞われたのはイギリスも同じでした。インドで大規模な反乱が発生し、鎮圧のために軍の一部を割かなければならなくなったのです。

ところが、本土の大半を占領されたオランダは耐えきれずに降伏。ロシアとイギリスの戦争はなおも続き、最後まで戦争目標を守り抜いたロシアが翌年無事シンガポールを獲得しました。

ロシアは念願の不凍港を手に入れたのです。

ついに音を上げたイギリス。絶え間ない上陸作戦に耐え続けた結果だ。

次回予告

繰り返される無益な外征に帝室の不幸が重なる。既得権益にしがみつく旧勢力を前に改革は遅々として進まなかった。果たして、ロシアは平等主義社会の夢を実現できるか。

次回「混迷の連邦」

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