どうするハワイ?
歴史ストラテジーゲーム『Victoria 3』のプレイ結果を物語風に脚色したAAR(リプレイ)です。プレイする国家はハワイ。今回はプレイ目標として独自の勝利条件を設けました。
本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。
はじめに
時は19世紀。産業革命が世界の形を変えようとしていた時代。ハワイ諸島の社会も大きく変わりつつありました。
ハワイ諸島が西洋と接触したのは18世紀末のこと。西洋人から銃火器の使い方を学んだカメハメハ1世はハワイ王国を建国。その後、アメリカの宣教師によってキリスト教が伝えられ、徐々に白人の影響力が増していきました。
プレイは1836年、カメハメハ3世の治世から始まります。史実ではハワイの政治の主導権は次第に白人の手に移り、最後はアメリカに併合されて独立を失いました。1898年のことです。
今回のプレイではこの運命に抗うことにしました。開始時に設定した独自のプレイ目標は次の2つです。
勝利条件
国内の全POP(人口)の中でハワイ文化が最大勢力であること。
平等主義社会のジャーナル記事を最後までクリアすること。
つまり、ハワイ人としてのアイデンティティを失わずに理想社会を建設できれば勝利です。ハワイ文化が最大勢力という条件があるので、史実のように最初から大量の移民を受け入れることはできません。
プレイした時の条件
ハワイは初見プレイ
難易度は標準
やり直しはしない
バージョン1.3.2(DLCは当時最新の「Voice of the People」まで導入)
大英帝国の脅威
1838年、カメハメハ3世の改革は移民規制法の制定で始まった。これは開明派君主として知られるカメハメハ3世が採用した数少ない保守的な政策だと言われる。
このときハワイの人口の4分の1を海外からの移民が占めていた。その大部分は中国系で、アメリカ系、イギリス系、ロシア系がそれに続いた。政治力では今なおハワイの先住民が圧倒的な力を有していたが、国内ではキリスト教宣教師が一定の政治的影響力を持つなど、変化の兆しが見え始めていた。
カメハメハ3世は矢継ぎ早に国内改革を進めた。任命制の官僚制度を整えて改革派の力を強め、政教分離政策で宣教師の力を削ぐ。いわゆる上からの改革であった。
1848年、ハワイ王国はイギリスとの間に英布通商条約を締結。その翌年にはフランスとも通商条約を結んだ。史実のように治外法権を認めた関税自主権のない不平等条約ではなく、対等の条約であった。
度重なる改革にもかかわらず、ハワイ王国の民心は安定していた。1851年にはカメハメハ3世の像が建設され、その威を内外に示すことになる。かの有名なカメハメハ大王像が建設される27年前の出来事であった。
1854年、地域大国となったハワイは英仏以外の列強とも次々に国交を樹立。太平洋の中心で孤立していた小国は世界の表舞台に羽ばたこうとしていた。
しかし、それを快く思わない国があった。大英帝国である。
イギリス公使は、最初に対等な通商条約を結び、ハワイ躍進のきっかけを作ったのは大英帝国であると主張。今こそその恩義を返し、イギリスが主導する関税同盟に参加すべきだと迫った。
関税同盟に参加することは、ハワイが独自の市場を放棄してイギリス市場の一部になることを意味する。
そもそもハワイ王国は大英帝国の後援でハワイ統一を成し遂げた国であり、イギリスには歴史的に浅からぬ恩義があった。その経緯から本来の国旗にはユニオンジャックが描かれている。
しかし、カメハメハ3世は大英帝国の要求を拒否した。あくまでハワイ独自の経済圏を守ろうとしたのである。
その代償はあまりにも大きかった。建国以来の恩義を踏みにじったことで、国際社会におけるハワイの威信は急低下。諸外国は礼儀も弁えぬ新興国と嘲り、ハワイは地域大国としての地位を失った。
新たなる道
大英帝国の要求を拒否し、地域大国の座を失ってから14年の月日が流れた。ハワイ王国は太平洋のど真ん中で英仏以外の諸外国から完全に孤立したままひっそりと生き延びていた。
このとき王国の成長を妨げていたのはその人口の少なさである。官庁、大学、港湾、どんな公共施設を建設しても高給を求めて労働者が殺到。人手を失った民間産業が立ち行かなくなり、たちまち国が傾くありさまだった。
しかし、ハワイの文化を守るためには移民を無制限に受け入れるわけにはいかない。王国の知識人が考えた解決策はハワイ諸島の周辺に浮かぶ島々への植民であった。
1868年、カメハメハ3世は憲法を公布。議会が開設され、ハワイ王国は立憲君主制に移行する。しかし、これは植民に反対する実業家を取り込むための政治的妥協の産物にすぎなかった。
最初の移民団がミクロネシアの島々に出発した直後、思いもよらぬ報せが舞い込んだ。またしても英国公使が関税同盟への参加を求めてきたのである。
大英帝国への対応を巡って議会で議論が紛糾する中、カメハメハ3世は関税同盟への参加を決断した。国民の3分の1が望む生活を送れない状況では他に選択の余地がなかったのだ。
イギリス市場に統合されたことで、ハワイの工業製品の生産性は軒並み向上した。高い識字率を誇るハワイの国民は、十分な原材料さえあれば世界に通用する製品を作れたのである。GDPはわずか数ヶ月で3倍に跳ね上がり、国民1人あたりGDPは世界5位になった。
大英帝国との共存共栄に新たな活路を見出したハワイは、他の列強からの干渉に備えるべくイギリスと防衛協定を結んだ。
王の死
1886年、ハワイを近代国家に導いた偉大な王カメハメハ3世が世を去った。折しも普通選挙法の制定をめぐり国内が分裂している最中であり、王の死をきっかけに王国では外国勢力を巻き込んだ政争が始まった。
国を二分する政争は大事に至る前に解決を見た。しかし、混乱に乗じて普通選挙法に反対する勢力が蠢動を開始。ハワイの歴史は今まさに加速をつけて動き始めようとしていた。
そのときハワイを神の怒りが襲った。キラウエア火山が噴火したのだ。王の死からわずか2ヶ月後のことであった。
カメハメハ3世の死に始まる政治的混乱は近代ハワイ史に暗い影を落とす。普通選挙法への反対運動は過激化の一途を辿り、毎月のように暴力事件が報じられた。
国王の死から3年後。普通選挙法の成立が目前となった2月14日にその事件は起きた。手榴弾を抱えた革命家がカメハメハ4世の馬車に身を投げ、馬車もろとも自爆したのである。
後世「血のバレンタイン事件」と呼ばれるこの悲劇によりカメハメハ4世は死去。新たに王となったルナリロはわずか2歳であった。
皮肉にも事件は普通選挙法の賛成派を後押しした。翌1890年、ハワイ王国は世界に先駆けて普通選挙法を施行。国家を二分する対立はようやく終わりを告げた。
ところが、ハワイ王国ではわずか2歳の国王を巡り君主不要論が噴出。一部の政治家が国内融和を図ろうとするも、却って火に油を注ぐ結果となった。
再び対立が深まる中、議会で政治家サンフォード・ドールが問いかけた。
「王政を廃止するなら、幼君ルナリロの処遇はどうするのか?」
これに対して共和派が国外追放を主張したことから王党派が憤激。国内は再び革命騒ぎが吹き荒れる修羅場と化した。
1893年、ハワイでは共和派が勝利を収め、まだ6歳の国王ルナリロは廃位されて国外追放となった。ここにハワイ王国は98年の歴史に幕を閉じ、ハワイ共和国が誕生する。
くしくも史実でハワイ王国が滅亡したのと同じ年の出来事であった。
仮初めの繁栄
アメリカはハワイに対する野心を隠さなくなっていた。危機感をつのらせたハワイ共和国はイギリス市場に留まったままフランスに接近。1897年、フランス皇帝ナポレオン3世との間に相互防衛協定を締結する。
ところがその翌年、想定外の事態が起きた。フランスで革命が発生。パリ・コミューンが成立したのだ。
パリ・コミューンは瞬く間にフランス本土の大部分を支配下に収め、そのまま内戦に突入。フランス政府から参戦要請を受けたハワイは建国後初となる総動員令を発した。
フランス本土では一進一退の攻防が続き、半年後、両者は現状維持で講和。イギリスと肩を並べていた列強フランスは帝国と共和国に分裂し、国際的な地位を大きく低下させた。
その間、ハワイ共和国が実戦に参加することは一度もなかった。しかし、総動員体制は女性の社会進出を促進。終戦の1ヶ月後には、女性の権利を拡大する法律が成立した。
20世紀に入ると、右肩上がりで成長を続けるハワイの1人あたりGDPは世界第3位に到達。生活水準も世界第4位となり、人々は科学技術が人類を幸せにすると無邪気に信じていた。アメリカとの関係も好転し、大英帝国と防衛協定を結ぶハワイの安全を脅かすものは世界のどこにも存在しなかった。
だが、その幻想は一瞬で消え去った。
1904年2月、大英帝国で内戦が勃発。ヘンリー・キャンベル=バナマン率いる自由党が王政廃止を掲げてイギリス全土で蜂起したのだ。
大英帝国の後ろ盾を失ったハワイにロシア帝国がすかさず21か条の要求を突きつけた。事実上の傀儡化要求である。英国政府はハワイに支援を約束したが、ロンドンを巡る攻防の最中にあって援軍は望めそうになかった。
最後通牒を黙殺したハワイ共和国に対してロシア帝国は宣戦を布告。即座にイギリスが参戦したものの、ロシアは大清帝国と同盟を結んでおり、彼我の兵力差は陸軍で3倍、海軍で1.5倍に達した。
7月17日、ついに布露戦争の火蓋が切って落とされる。本日天気晴朗なれども波高し。
布露戦争
開戦から3ヶ月が経過した1904年10月。マゼラン海峡を回ったロシア・バルチック艦隊がようやくハワイ沖に姿を現した。
迎え撃つはハワイ太平洋艦隊。双方の主力は装甲艦であり、性能は互角だった。しかし、数においては10倍以上の開きがあった。
奇跡が起きることはなく、ハワイ沖海戦はハワイ海軍の惨敗に終わった。主力艦隊を失ったハワイ海軍は以後陸軍の支援に専念する。
ロシア陸軍で上陸作戦の指揮を執るのはパーヴェル・レンネンカンプ将軍。ドイツ人貴族出身のロシア軍人で、史実では日露戦争に参加している。
英国製の新式ライフルと新兵器の機関銃で待ち構えるハワイ軍に対してロシア軍は旧態依然としていた。装備も軍制もナポレオン戦争当時からほとんど進歩していなかったのだ。
圧倒的な物量で攻め寄せるロシア軍であったが、少数ながら地の利を生かして守るハワイ軍を前にしてなかなか橋頭堡を築けなかった。
12月、首都ホノルルを巡る熾烈な攻防が続く中、朗報がもたらされた。ようやくイギリスの内戦が終結したのだ。勝者は王党派であった。
翌1905年2月、態勢を立て直した大英帝国は占領された租借地を奪い返すべく清に対して反撃を開始する。黄海において英国海軍と大清艦隊が激突。黄海海戦はロイヤルネイビーの圧倒的勝利に終わった。
ところが、黄海海戦の翌日、攻防戦の続いていた首都ホノルルがレンネンカンプ率いるロシア軍の手に落ちてしまう。ハワイ軍は散り散りになり、ミクロネシアの島々への撤退を余儀なくされた。
ハワイ軍が海軍の支援を受けて決死の退却戦を行っている頃、天津に上陸したイギリス軍は北京を目指して快進撃を続けていた。イギリス軍の指揮官はジョン・フレンチ将軍。史実では第一次世界大戦初期に海外派遣軍の司令官を務めた人物である。
一方、清軍を率いて北京を死守するのは皇帝・奕詝(咸豊帝)。史実では英仏連合軍が北京に侵攻した際、首都を捨てて熱河に撤退している。
英清両軍が激しい戦闘を繰り広げる中、ハワイ軍は静かに反撃の機会を窺っていた。4月、ロシア軍の防備が手薄になった隙を突いて逆上陸作戦を敢行。見事ホノルルの奪還に成功する。
翌月、北京の陥落は時間の問題となっていた。ハワイ政府がイギリス主導の講和に一縷の望みを託していたそのとき、突然耳を疑う報せが舞い込んだ。あろうことか大英帝国がロシアの要求をすべて受け入れて単独講和を結び、戦争から離脱したのだ。
大英帝国の離脱によりハワイは単独で露清両国と戦わねばならなくなった。絶望的な状況である。
その後、ハワイ軍は上陸を試みるレンネンカンプ将軍のロシア軍を二度まで撃退した。勝利を確信するロシア軍は機関銃と鉄条網に守られたハワイ軍の塹壕に無謀な突撃を繰り返した。
レンネンカンプはなおも上陸作戦を続行。翌1906年3月、膨大な犠牲と引き換えにホノルルは再びロシア軍の手に落ちた。
4ヶ月後、ハワイ軍は奇襲を成功させ再度ホノルルを奪還する。しかし、その継戦能力は尽きかけていた。資金、物資、戦意、なにもかもが底を尽き、国は債務不履行に陥っていたのだ。このままでは敗北は必至だった。
ところが、戦争継続が困難なのはロシア帝国も同じであった。度重なる上陸失敗で死傷者数が膨れ上がり、国内では厭戦感情が高まっていたのである。にわかに和平の機運が高まる中、大清帝国だけが和平に反対していた。
水面下で和平交渉が進められる間にも、地上では第8次ハワイ上陸作戦が行なわれていた。レンネンカンプも和平が結ばれる前に戦争の決着をつけようと必死だった。
1907年9月、ロンドン平和条約が調印される。3年に及ぶ布露戦争は終わりを告げ、ハワイに平和が戻ったのだ。太平洋の小国ハワイは列強を向こうに回し、その独立を守り抜いたのである。
ハワイの奇跡
かろうじてロシアに勝利したハワイだったが、経済は崩壊し、国家は破産寸前であった。それを見透かしたかのように軍事大国プロイセンがハワイへの野心をあらわにする。もはやハワイに連戦する余力はなかった。
ハワイ共和国はプロイセンの宿敵オーストリア=ハンガリー帝国の保護国になることを決断する。このときオーストリア=ハンガリーは内戦で弱体化した大英帝国を追い抜き、世界最強の経済力を誇っていた。
保護国となったハワイの経済は急速に回復。社会民主党政権下の厳しい緊縮財政により破産の危機は回避され、戦後わずか6年で財政の健全化に成功した。この成功は「ハワイの奇跡」と呼ばれ、ハワイの進歩的な社会制度に学ぼうとする潮流を産んだ。
財政健全化に成功すると政府は公共事業への投資を再開。戦後復興をさらに推し進めた。経済政策の成功を受けて国民の3分の2が現体制を熱狂的に支持し、女性参政権が認められると社会民主党の支持者はさらに増加した。
1910年代のハワイはあらゆる分野の産業が高い生産性を誇り、空前の好景気に沸いた。街中のラジオからはアメリカ発祥のジャズ音楽が流れ、「もはや戦後ではない」という言葉がもてはやされた。
そんなハワイで一つの変化が起き始めていた。社会主義の台頭である。農民と労働者の影響力は日に日に増大し、移民の自由化を求める資本家の声はかき消された。
1920年代に大恐慌を経験したハワイであったが、1930年代に入ると経済は回復。1人あたりGDPと生活水準はいずれも世界第1位になった。大英帝国に楯突いて威信を失って以来の悲願であった地域大国への復帰も叶った。
しかし、国内には異文化に対する根強い差別意識が残っていた。長きにわたる移民規制はハワイ文化以外への偏見と不寛容を生み出していたのである。
パイナップル王と呼ばれた首相ジェームズ・ドールは移民規制の撤廃に猛反発する農民と労働者を前にして困難に直面していた。
あとがき
こうして足掛け100年間にわたるプレイは終了しました。果たして開始時に設定した勝利条件は達成できたでしょうか?
勝利条件
国内の全POP(人口)の中でハワイ文化が最大勢力であること。
平等主義社会のジャーナル記事を最後までクリアすること。
ハワイ文化を守り通すことはできたものの、平等主義社会の実現に必要な多文化主義を取り入れることができず、勝利条件の達成はなりませんでした。
敗因は農民と労働者の力を強くしすぎたことです。これらの利益集団が移民受け入れに反対し続けたことで、多文化主義に到達できませんでした。
また、平等主義社会の実現を目指す過程で言論の自由を保証したのも裏目に出ました。強力な利益集団を抑圧することも指導者を追放することもできなくなっていたのです。
勝利条件の達成こそなりませんでしたが、今回のプレイは予想以上に楽しいものでした。これまでの定石が通用せず、発売直後のような試行錯誤が味わえたからです。
AARを読んで興味を持たれた方は、ぜひ同じ条件に挑戦してみてください。それでは、次のAARでまたお会いしましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました! よろしければ投げ銭をお願いします。