ロシアは平等主義の夢を見るか?#4
歴史ストラテジーゲーム『Victoria 3』のロシアで平等主義社会の実現に挑戦したAAR(リプレイ)です。広大な国土と莫大な人口という課題を克服するため、今回は連邦化という戦略を採用しました。
本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。
前回のあらすじ
識字率が向上し、産業革命が軌道に乗り始めたロシア連邦。しかし、教育を通じてロシアの近代化に一役買った正教会は平等主義社会の障害になり始めていました。
一方、イギリスとのグレート・ゲームはついに全面戦争に突入。連邦の命運を左右する戦いに辛くも勝利したロシアは香港を獲得します。
それからまもなくして、宿敵ヴィクトリア女王は国内の革命であっけない最期を遂げました。
第4章 革命の狂乱
普仏戦争
1885年、帝政に移行したフランスはプロイセンに対して、両国間の係争地を巡る大規模な外交戦を仕掛けました。普仏戦争の始まりです。
ロシア政府はプロイセンからの度重なる参戦要請を断り、局外中立を宣言しました。しかし、千載一遇の好機を黙って見逃すはずはありません。フランスに対して独自の外交戦を開始すると、以前フランスが対英戦争の混乱に乗じて保護国化したバルト連合州(現在のラトビアとエストニア)の返還を求めました。
驚いたことに、この時のフランスは同盟も防衛協定もない完全に無防備な状態でした。フランスがプロイセンに突きつけた要求はあまりにも過大であり、周辺諸国との外交関係が急激に悪化した結果、すべての条約が自動的に破棄されてしまったのです。
プロイセン軍と対峙するフランス軍はバルト連合州にまで手が回らず、ロシア軍は開戦からわずか3ヶ月でバルト連合州の完全占領に成功します。しかし、ここで想定外の事態が起こりました。占領中のバルト連合州で革命が発生したのです。
フランス軍は体制側を支援せずに革命を放置。フランスがロシアとの講和に応じたのは革命が内戦状態に突入した後でした。ルール上、一度開始された戦争には後から参加できません。ロシア軍は手をこまねいて内戦の行方を見守るしかありませんでした。
翌年、内戦は革命側の勝利で終結。バルト連合州はまさかの独立を果たしました。即座に軍事介入を検討したロシア政府でしたが、バルト連合州が早くもアメリカと独立保障協定を締結していることに気づいて愕然とします。テキサス=ルイジアナ動乱以降、北アメリカに干渉を続けるロシアにアメリカが意趣返ししたのでした。
自由主義の台頭
ここで直近の目標である2つのジャーナルを改めて確認しておきましょう。
ジャーナル「自由主義思想の奨励」を達成するには、知識人を主流派にまで強化する必要があります。
そして、ジャーナル「法案の可決」を達成するには、国教を制定していない状態で次の3つの法律をすべて制定する必要があります。
多文化主義
公立学校
言論の保護
わかりやすくするために、これ以降は「法案の可決」に関連する法律を太字で表記します。
普仏戦争が勃発した年、すでに正教会(聖職者)の勢力には陰りが見え始めていました。5年前に実業家が中心となって民間健康保険を成立させ、正教会の力の源であった慈善病院を廃止したからです。
4年後には正教会の影響力低下を利用して信条の自由を制定しました。これは国教を廃止する法律で、ようやくジャーナル「法案の可決」の条件を一つ満たしたことになります。
翌年の選挙では知識人が率いるカデット党が議席の4割を確保する大勝を収めて主流派となり、ジャーナル「自由主義思想の奨励」を達成します。
その後も知識人が中心となって自由主義的な法律を成立させていきました。選挙権を拡大する制限選挙、識字率を向上させる義務初等教育、生活水準を改善する規制機関や賃金助成。こうした法律は最終目標である平等主義社会の実現を見据えて制定したものです。
1880年 民間健康保険
1884年 任命制の官僚
1887年 制限選挙
1889年 信条の自由
1892年 義務初等教育
1893年 規制機関(社会運動)
1894年 賃金助成
1897年 私立学校
私立学校の制定によって宗教学校が廃止され、正教会の影響力はさらに低下しました。
稀代の指導者
私立学校の制定と前後して国外から扇動者を招聘しました。北ドイツ出身の無政府主義者クラム氏です。滅多なことでは発議すらできない多文化主義を制定するためでした。
数年後、社会主義思想が広まるジャーナル「世界を苛む亡霊」の効果により知識人の影響力がさらに強くなりました。多文化主義制定への追い風です。
1900年、満を持して扇動者クラム氏を知識人のリーダーに登用。多文化主義の制定を開始しました。
現状維持を求める革命運動が起こりましたが、そのまま審議を強行して4年後には制定に成功。ジャーナル「法案の可決」の条件がまた一つ揃いました。残るは公立学校と言論の保護です。
扇動者クラム氏は新政党・無政府主義社会を結成すると選挙で大勝を収め、知識人の影響力を着実に拡大していきました。
続いて、普通選挙の制定に取り掛かりました。公立学校と言論の保護を制定するには労働組合の力が欠かせないため、選挙権を拡大して労働組合を強化しようと考えたのです。知識人もそれを支持しました。
ところが、予想に反して選挙制度の現状維持を求める革命運動が急速に拡大。国内は内戦寸前の混乱状態に陥りました。
しかも、タイミングが悪いことに隣国オーストリアで社会主義革命が発生。革命が隣国に波及するイベント「赤の恐怖」が発生し、究極の選択が突きつけられました。知識人と労働組合を怒らせるか、それ以外の利益集団をすべて怒らせるかの二者択一です。
革命寸前の状態で後者の選択肢を選べば内戦待ったなしです。やむを得ず、知識人と労働組合には涙を飲んでもらい、普通選挙の制定も断念しました。
しかし、これに激怒したのが他ならぬクラム氏です。評議会共和制を求めて革命運動を始めると、瞬く間に多くの支持者を集めて手がつけられなくなりました。国内は革命前夜に逆戻りです。
過激化した知識人を懐柔するため女性参政権の制定に着手したものの、革命運動は収まる気配を見せません。国内の緊張が高まる中、1907年には皇帝アレクサンドル3世の暗殺事件が発生。内戦は不可避の情勢になりました。
ところが、翌年婦人参政権が認められるとクラム氏は突如として政界を引退。稀代の指導者を失った革命運動は次第に下火となり、ロシアは革命の一歩手前でかろうじて踏みとどまりました。
1899年 公共健康保険
1904年 多文化主義
1906年 自由貿易
1908年 女性参政権
クラム氏は翌年何者かに暗殺されました。引退の理由には諸説あり、現在も歴史の謎とされています。
平等主義社会への道
国家分裂の危機を乗り越えたロシアは次第に平穏を取り戻し、順調に改革を進めていきます。
1910年 レッセフェール
1911年 公立学校
1914年 言論の保護
1914年、ようやく必要な法律がすべて成立し、念願のジャーナル「法案の可決」を達成しました。
ところが、平等主義社会ジャーナルはこれで終わりではありませんでした。キャンペーン開始時に提示される2つのジャーナルを終わらせると、次の目標としてジャーナル「公的サービス」が出現します。
達成に必要な条件は、教育・保健・社会保障・労働安全の各機関のレベルをすべて3以上に上げることです。しかし、すでに識字率や生活水準を改善する目的でレベルを上げていたため、条件はクリア済みでした。
一瞬でジャーナルを達成したのも束の間、次のジャーナル「女性と子供」が立ちはだかります。
今度の条件は義務初等教育と女性参政権の制定ですが、こちらもすでに制定済みでした。革命騒ぎを収拾するための窮余の一策として制定した女性参政権は無駄ではなかったのです。
そして、ついに最後のジャーナルが登場しました。これがラスボスです。
最後のジャーナル「平等主義社会」の達成に必要な条件は次の3つです。
百姓が全人口の10%未満
生活水準が20以上
識字率が90%以上
あわてて現状を確認すると、1914年時点でのロシアの達成状況は次のようになっていました。
百姓人口:30.9%(目標10%未満)
生活水準:15.9(目標20以上)
識字率:77.3%(目標90%以上)
キャンペーン終了までの残り時間はたったの22年。目標はあまりにも遠く、達成は不可能だと思われました。
しかし、諦めたらそこでゲーム終了です。
次回予告
誰もが幸福に暮らせる平等主義社会の実現を掲げ、ロシアは五カ年計画を繰り返す。その理想はあまりにも遠く、実現は不可能に思われた。果たして、ロシアは平等主義社会の夢を実現できるか。
次回「五カ年計画」