ロシアは平等主義の夢を見るか?#3
歴史ストラテジーゲーム『Victoria 3』のロシアで平等主義社会の実現に挑戦したAAR(リプレイ)です。広大な国土と莫大な人口という課題を克服するため、今回は連邦化という戦略を採用しました。
本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。
前回のあらすじ
不平貴族のクーデターを未然に防いだロシア連邦でしたが、自由主義改革はなかなか前に進みませんでした。
内政が停滞する一方、ロシアはイギリスから獲得したシンガポールを足がかりに東アジアでの影響力を拡大していきます。
しかし、国内の反米感情が原因でアメリカ合衆国との戦争が勃発。大義なき戦争は思わぬ犠牲を生み出す結果となりました。
第3章 一時代の終わり
新興勢力の台頭
1871年、長らく続いていた正教会(聖職者)と貴族会議(地主)による安定政権に初めて実業家が加わりました。これをきっかけに政党の離合集散が起こり、次第に実業家と知識人が政治の主導権を握るようになっていきます。
この頃、ロシアの識字率は65%に到達していました。プレイ開始時が15%ですから、35年間で50%も改善したことになります。最初こそ工場で働ける人材がろくにいないありさまでしたが、識字率の改善に伴って産業革命が進展し、ようやく実業家が台頭できる環境になったのです。
全力で識字率を底上げするため、教育機関のレベルを上げるだけでなく、教育機会を高める「社会的流動性の促進」の布告を出し続けていました。すべての権力を布告に投入しているので、消費税はまったく課していません。
改革の歯車は再び回り始めました。実業家が政権に加わったことで経済制度の近代化が進み、選挙制度も貴族会議に有利な土地所有者投票から実業家に有利な富裕者投票に変更されます。
1869年 選挙制の官僚(社会運動)
1872年 干渉主義
1875年 保護主義
1878年 富裕者投票
平等主義社会の行方
ここで今回の目標である平等主義社会ジャーナルを見てみましょう。最初の目標は「自由主義思想の奨励」と「法案の可決」の2つのジャーナルです。
前者は、知識人の勢力を強化し、主流派(勢力が18%以上)にして政府に加えれば完了です。現在の勢力は10%前後なので、まだ時間がかかります。
後者は、多文化主義、公立学校、言論の保護の3つの法律を制定し、国教を制定していないことが条件です。現時点のロシアはこの4つの条件を一つも満たしていません。というのも、国内で最大の勢力を誇る正教会がすべての法改正に反対し続けているからです。
例えば、公立学校の制定は現在の宗教学校を廃止することを意味しますし、国教制度を変えることは正教会の影響力低下に直結します。正教会がこれに反対するのは自然のなりゆきでした。
しかし、このままでは平等主義社会ジャーナルを達成できません。識字率を上げるために宗教学校を強化した戦略が裏目に出てしまいました。これ以後は、いかにして正教会の力を削ぐかが最大の課題になります。
グレート・ゲーム
1860年代、ロシアとイギリスは世界各地で勢力争いを繰り広げていました。イギリスが仕掛けた外交戦にロシアが「待った」を掛ける形で、世界を二分する大戦争に発展しかけること2回。いずれも、外交戦を仕掛けられた当事国が屈服して戦争は未然に防がれます。
しかし、事あるごとにイギリスの邪魔をしようとするロシアを快く思わない人物がいました。イギリス女王ヴィクトリアその人です。
1870年、ヴィクトリアはロシアに対して直接外交戦を仕掛けました。要求はロシア連邦の構成国である「極東」の移譲です。
極東はロシアからウラル山脈の東側を切り離して自治権を与えた国家です。この国をイギリスに奪われれば、ロシア連邦の領土はいきなり3分の1以下になってしまいます。
この外交戦だけは絶対に譲るわけにはいきません。この時、イギリスはロシアに対してGDPで3倍、陸軍力で1.5倍、海軍力で6.5倍も勝っていました。
一方、狙われている極東は固有戦力をほとんど持っておらず、ロシアが守るしかありません。ロシアが制海権を維持できる可能性は万に一つもなく、一度でもイギリス軍に上陸を許せば終わりです。
ロシアは戦争目標としてイギリスの条約港である香港の移譲を要求。防衛協定を結ぶ清と同盟国のオーストリアを味方に引き入れました。イギリスはわずかに怯む様子を見せたものの、ロシアに従属する東南アジア諸国を要求に加えて外交戦をますますエスカレートさせていきます。
これは連邦の命運を左右する戦いです。ロシアは固唾を飲んで状況の推移を見守る従属国のポーランド、ベラルーシ、ウクライナにも参戦を要請しました。これまでは緩衝国として中立を守ってもらいましたが、そうも言っていられません。
戦争目標の香港にはイギリス軍240個大隊が陣地を築いて立て籠もり、徹底抗戦の構えを見せています。アヘン戦争の捲土重来を期する清軍とロシアの遠征軍がそれを遠巻きに包囲し、一触即発のにらみ合いが続きました。
両陣営に壊滅的な被害をもたらす大戦争を未然に防ごうとする努力も虚しく外交戦は時間切れを迎え、ついに第三次対英戦争が勃発しました。
第三次対英戦争
要塞化された香港を巡る市街戦は凄絶を極めました。補給物資を海上輸送に頼るイギリス軍は、中国本土から圧倒的な数で攻め寄せる清軍とロシア軍の攻勢を支えきれず撤退を決断。香港は開戦から4ヶ月後に陥落しました。
コンゴ川の水源を求めて開戦前にロシアを出発した探検隊が、苦難の果てに無事帰国したのはその直後のことです。香港陥落に続く偉業に、国民は英雄の帰還を歓呼の声で迎えました。
主戦場が東南アジアに移る中、イギリス軍は反撃の策として得意の同時上陸作戦を仕掛けました。ロシア、オーストリア、ウクライナ、清に対して同時に上陸部隊を派遣したのです。黄海では北京に上陸しようとするイギリス海軍とそれを阻止しようとするロシア海軍との間で一大海戦が発生しました。
黄海海戦はロシア・バルチック艦隊の勝利に終わりました。しかし、イギリス軍は増援艦隊を派遣。バルチック艦隊は戦闘を避けて長崎に撤退します。
この間、世界中でイギリス海軍による通商破壊作戦が繰り広げられていました。ロシアも輸送船を次々に沈められましたが、これまでの対英戦争とは異なり貿易路が完全に寸断されることはありませんでした。
フランスの従属国になったバルト連合州(現在のラトビアとエストニア)を通じて、フランスとの貿易が継続していたからです。イギリスといえども中立国であるフランスの民間船まで沈めることはできませんでした。
イギリスの攻勢に耐えて戦争目標の香港を守り続けること1年。さすがのヴィクトリア女王も根負けしました。イギリスは香港をロシアに譲り渡す条件で講和条約に調印。清はイギリスに禁輸を発動していたので、イギリスは事実上、中国市場から締め出されました。一方、ロシアはシンガポール、長崎に続く3つ目の不凍港を獲得することになりました。
急転
イギリスとのグレート・ゲームはまだ終わっていませんでした。早くも翌年にはエジプトを巡って第四次対英戦争が勃発。イギリスからジブラルタルの条約港を奪うことに成功します。
こうしてイギリスの経済力を間接的に弱体化する傍ら、国内ではコーカサス地方の自治権を拡大しました。すでに連邦の一部となっていたチェルケスとコーカサス・イマーム国に加え、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンを傀儡国として解放したのです。
そして、運命の1877年が訪れます。
ヴィクトリア女王の下、順風満帆。向かうところ敵なしと思われていたイギリスで突如革命が勃発しました。青天の霹靂です。
ロシアは革命に干渉しようとしますが、ルール上の制約によりできませんでした。体制側(ヴィクトリア女王)を支援するには外交関係が悪すぎ、革命側を支援するには体制側との停戦条約が邪魔していたのです。
このまま指をくわえてヴィクトリア女王が革命軍を鎮圧するのを見守るしかない。そう思っていたところ予期せぬ事態が起こりました。かつての植民地アメリカ合衆国の参戦です。アメリカ合衆国が味方したのは、あろうことか革命側でした。
内戦の口火が切られるとアメリカ軍は大西洋を越えてイギリスに上陸。熾烈な攻防戦の末、首都ロンドンはアメリカ軍の占領下に置かれました。
かくしてロシアの宿敵ヴィクトリア女王は革命に斃れました。ヴィクトリア時代はあっけない幕切れを迎えたのです。次に来る時代がロシア連邦の時代となるか。それはまだ誰にもわかりませんでした。
次回予告
実業家と知識人による新体制は自由主義改革を推し進める。正教会の牙城が崩れ始める中、無政府主義の影が忍び寄りつつあった。果たして、ロシアは平等主義社会の夢を実現できるか。
次回「自由の価値は」
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