【短文歴史002】古代ローマ
<超概略>
貴族共和政→身分闘争→民主共和制→対外戦争の勝利→貧富の差拡大→内紛→帝政の誕生→政治の安定→内紛→専制君主制→外部勢力の拡大→分裂
<概要>
貴族共和政のローマでは
重装歩兵として活躍した平民が貴族との平等を主張し(※1)
徐々に民主共和政となっていった。
ポエニ戦争に勝利したことにより地中海を制覇したが、
長年の戦争で中小農民が没役し、
貧富の差が生まれたことによって(※2)
市民の平等を原則とした共和政がゆらぎだし内乱の時代へ。
内乱を治めたカエサルらによって三頭政治が始めるも対立。
第2回三頭政治も同様に対立したが、
勝利をおさめたオクタヴィアヌス(※3)によって
共和政の制度を意識した事実上の帝政がはじまり、
五賢帝時代でローマは最盛期を迎える。
しかし異民族の侵入などで徐々に帝国は混乱していき(※4)
ディオクレティアヌス帝(※5)が専制君主制を始め、
コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認して帝国の再統一を図るも
ゲルマン人の大移動によって社会情勢がさらに混乱を極め、
ついに帝国は東西に2分割され、
476年ゲルマン人によって西ローマ帝国は滅亡した。
<もっと詳しく>
※1…貴族と平民の身分闘争
重装歩兵として国防に重要な役割を果たす中小農民の平民(プレブス)は、貴族(パトリキ)による主要官職の独占に不満を抱き、前5世紀初めに、ローマ近郊の聖山に立てこもり、国に対する軍務などの奉仕を拒否する聖山事件を起こす。この事件は支配層(=貴族)側が平民の抵抗権を史上初めて認めた事件となる。前5世紀前半には平民だけの平民会が設けられ、前5世紀半ばにはローマ最古の成文法である十二表法の制定に始まり、前367年にはリキニウス・セクスティウス法、前287年にはホルテンシウス法が制定され、貴族と平民との政治上での権利は同等となった。
※2…ポエニ戦争後のローマ
長年の戦争で国土が荒廃し、征服地からは安価な穀物や奴隷が流入したことによって、重装歩兵の中核であった中小農民が没役し、貧富の差が広がった。
※3…勝利をおさめたオクタヴィアヌス
カエサルの養子オクタヴィアヌスは、エジプトの女王クレオパトラと組んだカエサルの部下アントニウスを前31年アクティウムの海戦で破る。プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ヘレニズム時代は終焉を迎え、ローマによる”地中海帝国”が形成された。前27年にオクタヴィアヌスがアウグストゥス(尊厳者)となり、彼はカエサルとちがって共和政の制度を尊重し、第一の市民(プリンケプス)と自称したが、皇帝とは名乗らないだけで事実上の帝政が始まった。それは元首政(プリンケパトゥス)と呼ばれた。
※4…3世紀の危機
5賢帝時代時代以降は、各地の軍団が独自に皇帝をたてるなど軍人皇帝の時代になり、さらには属州の反乱が頻発、またササン朝ペルシアやゲルマン人の侵入が重なり、社会は混乱を極めた。
※5…ディオクレティアヌス帝
284年ディオクレティアヌス帝が帝国を4分し、政治的秩序を回復し、軍を増強など諸改革を断行した。皇帝を神として礼拝させ、専制君主制(ドミナトゥス)を始めた。
<参考>
『詳説世界史』山川出版社
『世界史B用語集』山川出版社
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