その向こう側

人は、その向こう側をみたくなる人とそんなこと関心ない人の二手に分かれる。そんな言葉が頭の中をうろうろする日々が続いた。どっちの人もそれなりの自分の人生なので間違いはない。途中で乗り換えることもできるし、貫くことも魅力的だ。

個人的にはその向こう側に興味深々なんだけど、それが職業とか金儲けにつながらない場合はかなり奇異に見られがちだ。熟年とか定年の歳になってふつうやらないことに手を出すことは珍しいと言えばすごく珍しいことで、珍しいと見られることに不快感はないし、珍しいことやる人の心得としてそれが自然でこっちがそれを受容することこそが大事だと思わなくちゃ続かない。

これまでいつも無謀な感じでその向こう側に飛び込んできた。凄いねと言われたこともドン引きされたこともあった。でもその向こう側に行く体力と気力、そして金銭があれば、昔も今もフットワークはよかった。要はきっかけがあれば好奇心が翼になった。ときに、自分は「そんな人じゃない」って気持ちで周囲の視線を断ち切り、周囲の決めつけに反撃するかのような、証拠を見せつけるような思いもあった。

でも、時に思うに、それはある面で自分の弱さの反面だったのかもしれない。こっち側だけで生きていける、楽しめる力がなかったからかもしれない。昔、ユングを少し勉強したとき元型というタームに惹かれた。ダヴィンチの「永遠の少年」元型という概念が自分のもやもやに形をくれたような気がした。自分が天才ダヴィンチと同じということではない。そんな不遜なことは考えていないけど、彼が一つの分野にとどまらず、一つの肩書に縛られず、縦横にその天分を生かしたという事実は、レベルは超低空だとしても自分に似たものを感じたということだ。

出自の不明確さ、母親への愛情と不信、安全基地の確立失敗、、、
振り返ってみれば自分はそうした「不幸」を人質に自分を守ろうとネガティブな生き方を貫いてきた。変な言い方だけど、現実逃避と表裏一体のとてもアクティブな生き方をしてきたのかもしれない。その向こう側に飛んでいくことはこっち側から逃げるということも意味している。こっちで思うようにいかなかったから向こう側に逃避する。逃避を繰り返して何とか生き抜いてきたことで、皮肉なことにいろんな知識や経験は豊富だ。それは社会で役に立った。でも何か抜け落ちているものも感じる。欠落したままのものがぶら下がったままだ。

ダヴィンチにもそれがあったのかどうか、知らない。ただ、ダヴィンチの慈愛に満ちた女性像への憧憬はいつも心に響く。オーソン・ウェルズの「市民ケーン」で描かれた大富豪の生涯が「薔薇のつぼみ」に象徴されたように、人は、心の底には、ほかの誰にも理解不能な価値観を抱いて、それに基づいた線引きで自分の心を埋めていく。こちら側で埋めていく人、その向こう側に行かないと埋められない人、どちらも人生だけど、そこには深いクレバスがあるようにも思える。

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