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映画を平均1日1回見ているオタクによる「劇場版 呪術廻戦0」の魅力【感想・解釈・解説】

ここまで長かった〜〜〜〜!!!

感想を書こうと思ったけどまず自分のクソデカ感情を処理できずに劇場版呪術廻戦0 公開初日に本気で向き合った話を書く運びとなり、
ようやく感想だ!と思ったけどまずは、と映画に向けて原作を褒め称えるnoteを書くこととなった。
クソデカ感情の話はともかく原作を褒め称える方は先に読んでくれた方がわかりやすいかなと思います。

ようやく!「劇場版」に焦点を当てた感想を書ける。

このnoteは、基本的には私があまりにも良すぎた映画の魅力をアウトプットしないと死ぬと思って書いたもので、映画を見た後、改めてここが良かったなとか、逆にここ気づかなかった!とか思って、劇場版呪術廻戦0をより楽しんでもらえたら、そしてあわよくば読んだ方が1度でも多く劇場に足を運んでくれたらと思っています。

⚠️これ以降、このnoteは劇場版呪術廻戦0のネタバレを含みます。
⚠️注意書きを入れましたが、1巻以降のネタバレも含む部分があります。
⚠️このnoteは、あくまでも「私が劇場版呪術廻戦0をこのように捉えた」という話であり、正解でも不正解でもなく、ひとつの解釈です。
⚠️現時点における私の解釈になります。
⚠️タイトルの平均1日1回〜、はnote公開時点でのものです。とはいえまだまだ鬼周回してますが……

1.映画という媒体に合わせた表現

今回の「劇場版 呪術廻戦0」は映画であり、原作の漫画とも、今までのTVアニメシリーズとも媒体が違う。
媒体が違うということは、それぞれの強み弱みがあるということで、それに合わせて表現方法を変えないと、映画は原作の下位互換になってしまう。

そもそもの前提として、

  • 原作漫画「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」は、全4話の連載。モノクロの紙(あるいは電子書籍)媒体。

  • TVアニメ「呪術廻戦」の基本的な形式は、
    (オープニング前の部分→)オープニング→Aパート→CM→ Bパート→エンディング(→Cパート)
    ×24回(2クール)。家庭のテレビやPCスマホなどの配信から見ることを想定。

  • 「劇場版呪術廻戦0」の形式は、100分強ほぼ地続き→エンディング→エピローグ(アニメにおけるCパートのような部分)
    冒頭にオープニングっぽい部分を含むが、アニメとは違い本編から独立したオープニングではない。映画館で見ることを想定。

つまり、原作漫画やTVアニメとの大きな違いとして、映画という媒体では、
CMなどに邪魔されることなく1つのまとまったストーリーを作ることができる一方、
同じ理由から観客を100分強の間飽きさせず集中させることが求められる。

そのために、ストーリー構成を工夫する他、漫画にはない色・音楽・声・動き、アニメにはない大画面と音響設備をなどを効果的に使う必要がある。

そのための工夫が劇場版呪術廻戦0にはいくつか見られる。

①まとまりを作る工夫

前回のnoteの後半でしたように、この物語は原作の時点で、乙骨の成長、夏油との戦い、里香との別れを軸とした起承転結から、1つのまとまったストーリーが完成している。
だから特に何も意識せずそのまま映画化しても(尺の都合である程度の調整は必要だと思うが)そこそこちゃんとまとまった話にはなるはずだ。

だから私は「呪術廻戦0はかなり映画化に適した原作だったなぁと思った」とか書いたわけだが、その上で「劇場版呪術廻戦0」にはそれ以上の工夫がある。

1つ目の工夫は、物語の流れに沿って春夏秋冬を描くことである。
オタク枕草子開始。

春は初任務。
真希と乙骨が向かった先の小学校で、漫画では学校に生えている木はモノクロで黒、おそらくもう葉っぱの季節になっているが、映画では桜の花が咲いている。

夏は訓練。
真希との初任務を終えて目的意識を持った乙骨が真希にしごかれているシーンで、蝉が木に止まっている画が挟まれる。蝉の音も入っている。原作には蝉はいない。
また、棘との任務の後、乙骨がパンダから棘がパンダを気にしていたと聞くシーンでは、棘が水をやっている背後の花が朝顔になっている。(原作は何かわかんない低木みたいなの)

秋は宣戦布告。
夏油が宣戦布告をするために高専に現れるシーン。ここでは、話をする乙骨や夏油の足元、地面には落ちた黄色い葉っぱが描かれている。
この描写も原作にはない。

冬は百鬼夜行後。
百鬼夜行が終わり、乙骨と五条が喋っているラストシーンでは、原作でも吐く息が白くなっているのが分かり、寒そうな描き方がされている。映画では、そこをさらに強調し、広い高専の敷地が一面雪で白く染まり、ドサっと木から雪が落ちる描写も含まれている。

こうして四季を描くことで、乙骨が過ごした時間の長さを意識させつつ、1年間という1つのまとまりを演出している。

2つ目の工夫は、乙骨の成長物語という軸を補強するために、最初にきちんと弱い乙骨を描くことだ。

例えば真希との初任務のシーン。
五条の

「呪いを祓い子供を救出 死んでたら回収だ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p30

という指示の、「死んでたら」の部分に対し、乙骨は「え、死…?」と反応している。

また、去り際の五条の

「そんじゃ くれぐれも 死なないように
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p31

という言葉に、乙骨は

「死って……先生!?」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p31

と返している。

どちらのセリフに対しても乙骨は、「死」というワードに反応している。
より正確にいうならば、「死」が現実的な状況において、「死」というワードが特別な重みなく、さらっと出されることに対しての反応だ。

「死」というワードはそこそこ頻繁に目にするが、一般人が普通に現代日本で暮らしていて、「死」に直面する機会はそう多くないため、そのほとんどは比喩であったり冗談や仮想の話だ。
その分、「死」が現実的な状況でその言葉を使う場合、その言葉はかなりの重みをもって、配慮を込めて使われる。

それに対し、呪術師は常に死と隣り合わせだ。
殺したことも殺されかけたことも、死にかけた誰かを見ることも死んだ誰かを見ることも経験している。
だから五条は普段の軽口の口調のまま、現実的に起こりうる死の話ができる。
隣の真希はそこに違和感をおぼえない。

乙骨は乙骨なりにあの小学校で「死」が現実的に起こりうる話だと認識はしているのだと思う。その分、「現実的な死」と、「五条の口から出る言葉の重み」のギャップに違和感がある。

去り際の五条の言葉に対する反応は原作通りだが、子供が死んでたら回収、という五条への反応は原作にはなく、映画オリジナルだ。
映画では、乙骨の感じる違和感をより強調することで、乙骨がまだ呪術師ではなく一般人であることを強調している。

それに加え、乙骨の喋り方はかなりびびっている(言い方が悪いかもしれないが割と情けないくらいまである)。真希さんがちょっとイラついてるのもわかるくらいになっている。原作でも冷や汗をかいたりあわわわわとかしている感じが、声がつくことでよりうまく表現されていたと思う。
校舎の廊下を真希の後ろをついて歩くシーンでは、原作以上に猫背度が増しているようにも見えた。(原作で姿勢が確認できるコマが少なすぎるのでたまたまかもしれん)

その後の、乙骨が訓練中に五条が様子を見にくる場面では、涼しい顔で走る真希と棘に対してヘトヘトの顔で走る乙骨が周回遅れにされているシーンが出てくる。
この描写は原作にはない。
原作でも乙骨は「何より君超貧弱だから」と五条に言われていたが、イヤ五条から見りゃ人類皆貧弱では……もちろん乙骨は呪術師としては確実に"貧弱"ではあるんだろうけど……とかも正直ちょっと思ってた。
具体的に乙骨が体力的にまだ未熟であるシーンが出てきたのはわかりやすくてとても良かったと思う。

また、棘との商店街の任務に向かう際、五条に里香を出すなと言われた時の、

「なんでこのタイミングで追い打ちかけるの!!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p74

という台詞や、想定外の強い呪霊の登場による

「なになになになに!?アレ!!?」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p86

という台詞の言い方も、乙骨の余裕の無さやテンパってる感がめちゃくちゃ表現されていてすごい良い!!と思った。

こうやって、初期の乙骨がちゃんと弱い普通の人であったところを丁寧に描くことで、変化がちゃんと目立つし、映画全体を通した最終的な彼の成長が活きてくるのだと思う。

私は初日3回間を開けずに連続で映画を見た際、成長した乙骨と初期の乙骨の落差に結構びっくりした。

②観客を飽きさせない工夫

観客(読者)をちゃんと引きつける、という点においても、前回のnoteで書いたように、そもそも原作が優秀である。
乙骨を感情移入の器として物語の入り口にすること夏油という不穏要素を少しずつ近づけることの2点から、読者をちゃんと物語の世界に引き込んでいるからだ。

映画でもその点は補強されている。
乙骨を感情移入の器とする点では、先ほど述べた弱い乙骨をきちんと描写するというのも工夫のひとつだ。
また、乙骨が真希と子供を抱えて小学校から脱出するシーン。
一度立ち止まってしまった乙骨の震える手足がうつり、

ここで変わるって決めたじゃないか!!!
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p52

と力強く足を踏み出すところ。
原作でもそこにはコマが割かれているが、一度止まっていたのがわかりやすい分、映像で見るとよりその一歩の力強さが表現されているように見える。

次に、夏油という不穏要素を徐々に近づける点について。
映画では、小学校の任務の後、ボロボロに壊れ呪霊の体液で汚れた屋上に、夏油が乙骨の学生証を拾いにくるシーンが追加されている。これは原作にはない。
そこでの夏油は顔は映らず、特徴的なお団子ハーフアップの髪型が影の形で映るのみである。

また、棘との任務のシーン。
原作では、ニヤリと笑う夏油の口元のコマが挟まれた後に

「おかか!!」
「どうしたの? あれ?本当だ "帳"が上がらない」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p82

という棘と乙骨のやりとりがある。
しかし映画では、夏油のニヤリと笑う口元が映されるのは、このやりとりより後である。
代わりに、このやりとりをしているシーンはかなり遠くから2人を見ているアングル、というか、夏油の座っているところからのものなのだ。
画面の右端には夏油の足がぼんやり映っている。

「残念 噂の里香ちゃんを見にきたのに」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p99

という最後の夏油と同じアングルだ。
そして、このセリフを言う時の夏油は、原作では姿が見えているが、映画では手元や足元や武器庫呪霊しか見えておらず、見ている側が気になる顔が上手く避けられて映らない。めちゃくちゃ焦らされてる。
また、五条悟の台詞でようやく不穏要素であった夏油の姿と正体が明かされるシーンでも、原作では顔が先に大きく出てくるのに対し、映画では後ろ姿と信者が頭を下げている映像を先に出して、顔が出てくるのは1番最後。
徹底的に焦らされている。

つまり、
ニヤリとした口元(p82)→姿(顔込み)(p99)→正体(p103)、という順に少しずつ全貌を見せていく原作に対し、
映画では、
シルエット(小学校後)→視線と足先(帳あがらんのやりとり)→ニヤリ→手元や足元後ろ姿→姿、正体、とはじめの2段階が追加され、より早い時点から夏油という不穏要素の匂わせが始まっている上に、正体が明かされるまでの段階がより細かくなっている。

観客を飽きさせず引きつける工夫は後半の戦闘シーンに、場面の切り替えが追加されているところにもある。
ただでさえ迫力と緊迫感のあるバトルシーンに加え、場面が変わることで、観客はより集中して映像を見ることになる。また、登場キャラクターが増えたことで、普通に戦闘シーンが盛り上がる。

原作では、
 高専(夏油が戦略を語りながら高専に登場、真希と乙骨のやりとり、夏油帳をおろす)
→新宿(五条や他呪術師、夏油一派登場)
→高専(真希VS夏油)
→新宿(パンダ棘転送、開戦)
→高専(パンダ棘VS夏油、乙骨VS夏油戦闘開始)
→新宿(伊地知と美々子菜々子、ミゲルVS五条)
→高専(夏油三節棍を取り出す、純愛VS大義)
で百鬼夜行の戦闘シーンは完結する。

映画では、
新宿(待機する術師たちの画、夏油が戦略を語る声)
夏油一派の拠点(夏油が戦略を語る声)
→高専(夏油到着、真希と乙骨のやりとり、夏油帳をおろす)
→新宿(五条や他呪術師、夏油一派登場)
→高専(真希VS夏油)
→新宿(パンダ棘転送、開戦)
→高専(パンダ棘VS夏油、乙骨VS夏油戦闘開始)
→新宿(猪野冥冥、伊地知と美々子菜々子、ミゲルVS五条、家入)
→高専(夏油三節棍を取り出す、玉藻前とうずまきを出す)
京都(七海、京都校の生徒たち)
→高専(純愛VS大義)
で百鬼夜行の戦闘シーンは完結する。

太字にした部分が原作に加えて追加された部分だ。変化した部分についてひとつずつ解説する。

夏油が戦略を語りながら高専に到着する間は、漫画では1ページ半程度だが、文字量が多く、間にデフォルメされた絵を挟むなど、映像にするとそこまで短い時間ではない。
画面の単調さを回避した上で、より多角的な視点から百鬼夜行を見ることができる。また、高専側の作戦会議のシーンが出ているので、反対に夏油側の作戦会議(というより説明だが)のシーンを映すことで、その対比の効果もある。

猪野、冥冥、家入、七海、京都校の生徒たちなど、原作にいないキャラクターの戦闘シーンが描かれたのは、シンプルに色々なキャラクターの様子を描こうとしたのだと思う。
キャラクターを入れるタイミングは、猪野、冥冥、家入は五条のバトルシーンをここで盛るからかな、と思う。

京都のシーンが挟まれるタイミングは、夏油が玉藻前とうずまきをという明らかに強そうなものを出してきて乙骨VS夏油の戦況が不安になる、京都での強い呪霊にモブの術師が殺されるという絶望感の連続に対するカンフル剤として七海の黒閃がめちゃくちゃ映える場面だったからではないかと思っている。それが理由かはさておき、そういう効果を生んでいたこと自体は事実だ。

2.迫力あるバトルシーン

呪術廻戦というアニメの大きな魅力のひとつはここにあると思う。

おんなじ映画を2桁回も擦ってはこんな長文の感想を書いていることからもわかるように私は基本狭く深くタイプのオタクだ。
だから、他のバトル物のアニメのバトルシーンとの比較をするには材料が足りないところもあるが、その上で思う劇場版呪術廻戦0のバトルシーンの特徴は以下の3つだ。

①共感性の排除

呪術廻戦0の中のバトルシーンの多くでは、戦闘中の登場人物のモノローグが圧倒的に少ないように思う。

もちろん全くないわけではないが、相手がこう出てくるから自分はこういう攻撃をしようというような戦略強い敵と対峙する上での不安そこから自分を鼓舞するような言葉、といった、戦闘中の思考回路の描写が最小限に抑えられている。

相手に向かって自分の主張をするような場合でも、戦いながら「○○なんだァーーー!!!!」みたいな感じで叫んだりとかは基本しない。
戦いと戦いの合間で自分の主張を言い合ってから戦いを始める(あるいは再開する)ことが多い。

戦闘シーンでバチバチに画が激しくやり合っている間、明確なセリフでその内面が説明されることはほとんどないのだ。こうすることで、見ている側の私たちは、戦っている最中彼らが何を考えているのか明確にはわからない。
言い換えると、共感する部分がない。

これをおそらく意図的にやっているのではないかと私が思うのは、戦闘中の思考回路を丁寧に説明してくれる部分が少しだけあるからだ。
それが、

「かわされた!!けど崩した!!着地で捉える!!」
「嘘ぉ!!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p67

真希と練習をしている際の乙骨の脳内。
また、

「目を離すな 足を止めるな 刀に呪いをこめる…!! (中略) 僕はまだこの呪いに敵わない 
でも!! 狗巻君の優しさには絶対応える!!」
芥見下々「呪術廻戦0東京都立呪術高等専門学校」p91-96

商店街の呪霊と戦う乙骨の脳内。

先程述べたように、この時点での乙骨のはまだ「読者/視聴者の感情移入の器」としての役割があるためである。
このように、読者の共感を誘う必要がある部分では、戦闘中の思考回路を語ってくれるのだ。

逆に言えば、戦闘中の思考回路の描写が最小限にされているのには、共感性を排除する意図があるということだと思う。私たちは彼らに移入するのではなく、完全に切り離された観客として圧倒される。

言葉で直接心情に訴えるのではなく、純粋に「とんでもなくカッコいいバトルシーン」の映像力で殴ってくる、というのが呪術廻戦のバトルシーンのやり方であり、それが成立しているというのがこの作品のめちゃくちゃすごいところなのだ。

②驚異の作画力・呪術表現の工夫

①で述べた、純粋に「とんでもなくカッコいいバトルシーン」の映像力で殴ってくるというやり方を可能にしているのが、まずこのとんでもなく素晴らしい作画だ。

言うまでもなく呪術廻戦の作画は物凄く良い。バトルシーンの作画は輪をかけて良い。
キャラの動きが映えるように変わるアングル、動きの速さ、複雑さ、どう言っても伝わる気がしないしこれはもう私がゴチャゴチャ説明するまでもなく劇場に観に行けば1発でわかると思う。

そんなスーパーハイパーウルトラすごい作画に加えて、呪術を表現する工夫もすごい。

黒閃の描写が1番わかりやすい例だと思う。
黒閃を発動する描写が初めて出たのはTVアニメシリーズだ。
これも文字で説明するのはかなり難しいが、空間がゆがみ、黒く光る呪力が墨のようなタッチで描かれる。画面の色が抑えられて、白をバックに黒と赤の2色が使われることが多く、今までとても滑らかに動いていた鮮やかな戦闘シーンの映像に、連続性の低いチカチカとした画が一瞬のうちにたくさん挟まれるような形になる。

視聴者/観客の情報処理が追いつかないことで、

今何が起こった!?
なんかすごい技が発動された!!!?

というのがダイレクトに感じられる。
TVアニメシリーズで「これが黒閃」という表現の仕方がわかったから、アニメを見ていた映画視聴者は映画で出る黒閃シーンに今の黒閃だ!!!って気づける。
テンション上がるよね、黒閃。

また、劇場版で言うと、うずまきの描写も良かった。
個人的にはピカソのゲルニカっぽさを感じた。
阿鼻叫喚、色々な負の感情、そういうものが鈍色になってぐるぐると渦を巻きながら広がっていく感じがすごく、これが「呪い」を煮詰めた先のものなんだという感じがした。

その他にも、「現実世界では見ることのできない呪力・呪術」を効果的に表現する場面は多々ある。
それによって、よりかっこいいバトルシーンを描くことに成功している。

③音楽

①で述べた、純粋に「とんでもなくカッコいいバトルシーン」の映像力で殴ってくるというやり方を可能にしているもうひとつの要因が、音楽の使い方だ。

呪術廻戦のバトルシーンは、戦闘中の音楽と戦闘中のキャラクターの動きが絶妙に合っているので、戦っているものの、どこか動きと音楽に目を惹きつける華があり、ひとつのショーとかを見ているような気持ちにさせられる。

戦闘シーンの音楽は基本どれも盛り上がりや緊迫感があって、ドーパミンとかがドバドバ出そうな曲調ではあるが、その中でも戦闘キャラによって音楽の雰囲気が変わるのも、あ〜わかるこの子こんな感じだよね!というそれぞれの色が見えて魅力的だ。

英詞付きの曲があったり、キメるところで特徴的な音が挟まれたりするのも"カッコいい"所だ。
例えば、商店街の呪霊と乙骨が戦う際の、

「僕はまだこの呪いに敵わない でも!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p94

と、喉薬を獲得するために呪霊の下に乙骨が滑り込むシーン。

また、夏油と乙骨が戦うラストシーンで、呪力を込めすぎて刀が壊れ、

「駄目じゃないか 急にそんな呪いをこめちゃ 器がもたない 悟に教わらなかったかい?」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p175

と夏油に指摘された乙骨が夏油をぶん殴り、黒閃を発動させるシーン。

この辺りで入る音はめちゃくちゃかっこよくて個人的に超超気に入っているので、これを読んで「あれ?どんなんだっけ?」と思った人はぜひもう一度劇場に足を運んで聞きに行って欲しい。

ちなみに、バトルシーンに限らず呪術廻戦の音楽はめちゃくちゃ良いと思っている。

映画だと、朝の澄んだ空気のような、これから始まるぞという雰囲気のあるOP(全体的に綺麗で壮大な雰囲気の曲が、乙骨が灯籠のたくさん並ぶところを歩くあたりで特徴的な音を挟んで1段階盛り上がるところが好き)、教祖夏油が頭を下げる信者たちの前ですごい座り方してるシーンの宗教っぽさのある音楽、夏油が高専で乙骨や五条とやりとりした後宣戦布告を始めるタイミングで流れ出すクセのあるリズム、純愛だよのラストシーンから流れ出す映像の激しさに反する綺麗な音楽あたりが私のお気に入りだ。

劇場版呪術廻戦はアニメ版と比較して、おどろおどろしい雰囲気のBGMよりも、比較的明るめ美しめなBGMが多い気がしている。また、劇場の音響効果を見込んでか、壮大な雰囲気の曲も多い。
アニメ版との比較で見るのも面白いと思う。

3.キャラクターが丁寧に描かれている

これは前回のnoteで触れられなかった部分だが、原作でももちろんキャラクターはとても丁寧に描かれている。
公式ファンブックが発売され、あれだけの新情報が出たにも関わらず、私の観測範囲ではほとんど解釈違いだという声は聞こえてこず、こうかなって思ってたけどやっぱそうなんだ!という意見が多かった。
読者に正確にキャラクター像を掴ませるような過不足ない情報の出し方が芥見先生はとても上手いのだと思う。

0巻でもその強みは遺憾なく発揮されていると思うが、劇場版呪術廻戦0ではキャストの芝居や、秀逸なアニオリによって、その点がさらに補強されている。
映画の中で、キャラクターがどういうシーンによってどう描かれていたか、個々のシーンをひとつずつ取り上げて、それぞれのキャラクターについて書こうと思う。
要するに私が「このキャラのこのシーンあまりにも良!!!」と思ったシーンをキャラごとに羅列するだけなので、今までのストーリー構成の話とかでもう説明済みだったり、私があまりこのシーンからこういうのを感じた!!っていうのを書きづらいキャラクターは飛ばしたりもするが、どのキャラクターも映画の中で輝いていたし、私はどのキャラクターのことも愛している
ここでは、1巻以降の呪術廻戦での発言なども踏まえてキャラクターの話をするので、ネタバレを含む。

ちなみに私は、前のnoteを書きながら、できるだけ個人的な推しに肩入れしないようにニュートラルにまっすぐに論理的に書こう…と努めた結果、推しのことなんて言っていいかわかんなくなった。
だからとりあえず1回叫ぼうと思う。

私、五条悟がめちゃくちゃ好き!!!!!!

ふぅ。
ということで推しに肩入れして推しの話から始める。そして、推しやさしす周りの話はちょっと感情が昂ってしまうし他の数倍長くなるし妄言を吐くかもしれないけど許して欲しい。
でも推し以外のキャラのこともちゃんと好き。

①五条悟

0巻では、五条悟と、彼の「たった一人の親友」である夏油傑との離別が描かれる。それにより、24話あったTVシリーズ以上ではないかと思うほど、五条悟という人物の内面が見える物語になっている。

そうやって五条悟を見て、まず思うのは、彼の切り替えの上手さである。
まず、夏油が宣戦布告をしにくる前後のシーンを紹介したい。

夏油が高専を訪ねてきた時、夜蛾は五条に、

「校内準一級以上の術師を正面ロータリーに集めろ!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p114

と指示を残して走り去る。
しかし五条は動き出しが遅く、しばらく走り去る夜蛾の方を見たまま思うところがあるような顔をしていて、そのあと歩き出す。その足取りも決して軽くはない。機械的に足を動かし始めた、ような感じがする。
ちなみにこの辺りの五条の動きは原作では描かれていない。

また、宣戦布告の後には、去っていく夏油を包帯越しに見つめている五条のシーンが描かれる。
そして、それからしばらく五条は教室で黄昏ている。

「非術師を皆殺しにして呪術師だけの世界を作るんだ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p118

と高専に宣戦布告をしにきた親友が、かつて

「"弱者生存"それがあるべき社会の姿さ 弱きを助け強きを挫く いいかい悟 呪術は非術師を守るためにある」
芥見下々「呪術廻戦8巻」p84

と涼やかに理想を語った声、そして、

「生き方は決めた 後は自分にできることを精一杯やるさ」
芥見下々「呪術廻戦9巻」p158

と言った夏油に返す言葉を持たなかった昔の自分のことを思い出す。

袂を分かった親友との、10年来の再会。
そしていよいよやってきた、夏油傑と正面から対立する機会

なんとも思っていないはずがないのだ。

同じタイミングで同じ回想を夏油もしているが、五条は夏油に加えてもうひとつ、立ち去る夏油に対して術式を発動しようとし、できず、手を下ろす自分を思い返している、

夏油を殺せなかった自分を思い出すのは、これから夏油を殺さなければはらない覚悟をしているからだ。

しかし五条はしばらく黄昏た後、夏油への対策をたてる会議に向かう。
そこでの五条はもう夏油への感傷を引きずっていない。少なくとも言動の上では。
努めて冷静に自分が知っている夏油の情報を話している。

後半、努めて冷静に話す五条の描写は原作0巻にもあるが、五条の回想は本来原作8,9巻で描かれるシーンだ。
夏油が訪れた際の五条の反応や、あの回想シーンを挟むことで、
五条がなんとも思っていないはずがないことを強調し、その後切り替えて冷静に話していることが伝わる。
それだけの切り替えを要され、理性的に振る舞わざるを得ない五条悟の背負っているものの大きさが印象付けられる。つらい。

五条の鬼の切り替えシーンはもうひとつ。
最後、夏油傑との離別シーンと、解呪に成功した乙骨のところにやってきたシーンのギャップだ。

「親友」との死別かつトドメを刺したのは自分という、普通ならかなり引きずるであろう状況にあっても、五条は笑顔で乙骨の前に現れ、

「君 菅原道真の子孫だった 
超遠縁だけど僕の親戚!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p193

と言っていぇいいいぇいとはしゃいでみせる。
このセリフの言い方、リズム感も最高だった。さすが天下の中村悠一さんだ。
ちなみにあのいぇいいぇいのシーンの五条悟めちゃくちゃかわいい。BIG BIG LOVE

こうやって、
五条悟はその場の自分の感情や感傷を
切り離すことができる
=できるようにならなければいけなかった

のだ。
しかし彼はそれを切り離すことをしても、手放すしたわけでも捨て去ったわけでもないのだ。
ちゃんと痛みも寂しさもある。
それでも努めてそれを切り離して、あるときは真面目に、あるときははしゃいで振る舞う。
その絶妙な人間らしさが彼の魅力のひとつであり、それが表現されている映画のオリジナルシーン、最高だった。 

また、映画オリジナルシーンによって彼の人間らしさを感じたところは、映画の序盤

「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ 何人たりともね」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p61,62

と独り言ちるシーンだ。
原作では一言でいっている(ように見える)このセリフだが、映画では、「何人たりともね」の前に、乙骨が同級生と訓練している様子の映像が挟まれる。

最初、呪術総監部(野暮な年寄り共)に対する愚痴をこぼすように始まったこの台詞は、生徒たちの様子を見て溢れる五条の本心となる。
「若人から〜」の部分と「何人たりともね」で、声の柔らかさが全然違う。
覚えがない人は是非劇場にもう一度足を運んで確認してほしい。

五条悟はTVアニメシリーズの中、呪術廻戦2巻84ページでも、状況が違うので言い方は変わるが、一言一句違わないセリフを口にしている。

五条があんなにも若人の青春絶対守るマンなのは、おそらく彼にとって自分の青春の記憶が本当に大切なものだからだ。

3年間の青い春、その記憶は、あの「最強」の五条悟が封印されるに至る唯一の隙である。
高専での生活は4年間だが、五条悟にとっての青い春はそのうちの3年間であり、夏油傑の離反、という後味の悪い幕引きを迎えてさえも、3年間の記憶は五条の中で一等きらめく大切なものなのである。

私は「五条悟は自分の感情を切り離すことができるようにならなければいけなかった」という言い方をした。
それは、五条悟が夏油傑の離反を受けて、ひとりで「最強」の名を背負いながら教育という手段から長期的な改革を決意したからだ。
そして、先ほど言ったように、五条は切り離す術を持っているだけで何も感じないわけではない
一等きらめく青い春の記憶は、おそらく辛いことも理不尽なことも切り離しながらここまで歩いてきた五条の支えのようなものなのだと思う。

五条が繰り返し口にする、「若人から〜」の台詞には、自分にとって大切なものだから、他人にもそれを与えてあげたいと思う気持ちがある。
それが彼の善性であり、優しさであり、それを善性や優しさという形で差し出すことが、彼の人間らしさだと私は思っている。
だから劇場版呪術廻戦0でこの台詞が丁寧に扱われて大変嬉しかった。

また、劇場版呪術廻戦0を見て多くの五条悟ファンが歓喜したのは、おそらく戦闘シーンの追加だろう。
私も例外ではなく、ギャーーー!!と思った。

こちらでは、前半で私が紹介した部分とは反対に、人間離れした五条悟の強さが全面に押し出されて来る。

多くの五条悟推しの共感を得られる自信があるが、ミゲルと五条の戦闘シーンで私が1番好きなのは、例の紐を使って逃げるミゲルの前に、逆向きで五条がパッと現れるシーンだ。
めちゃくちゃかっこいい。

同様にめちゃくちゃ好きな追加台詞が、

「コレ1本編ムノニ俺ノ国ノ術師ガ何十年
カケルト思ッテル!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p165

というミゲルに対し、

「知るか。僕の一秒の方が勝ってる。それだけだろ」
劇場版呪術廻戦0

と言う部分だ。
このセリフの淡々とした言い方がめちゃくちゃに良い。
勝ち誇るでもなく、相手を煽るでもないその言い方は、この台詞は五条悟にとってはただの事実であり、それ以上でもそれ以下でもないことを示している。
五条悟が前提として相手と同じ次元に立っていないことに自覚的であることがきちんと表現されていることが私は嬉しい。
勝って嬉しいとか負けて悔しいとかそういうところに彼は立っていない。五条はさっさと片付けて高専へ行きたいのでイラついてはいるものの、本当にそれだけなのだ。

こうやって、劇場版呪術廻戦0では、五条悟の人間らしさ人間離れした強さがどちらも丁寧に描かれている。
私は、五条悟というキャラクターの大きな魅力は、人間離れした能力の高さの中に、ひとさじの人間味(しかも重ためのやつ)が見えるバランスの良さだと思っている。だから、
人間らしさの描写は、彼の人間離れした強さから生まれる孤独に深みを持たせ、
人間離れした強さの描写は、反対に彼の人間らしさの部分を際立たせる。
両方の相乗効果で、五条悟の魅力のハイパーインフレが起こっている。

また、映画では教師としての五条悟と生徒の関わり方も丁寧に描かれている。
教師としての五条悟のやり方は、はっきり言うとかなりスパルタだ。死ぬ前には助けに行くからいっぺん行って転んでこい、みたいな感じがある。
真希と乙骨の小学校の任務では、里香の実力を見るために、すなわち乙骨に里香を出させるために、おそらくあえて真希の手には余る大きめの任務を振っている。
百鬼夜行でも、夏油に指摘される通り、乙骨の起爆剤とするために死にかけるのを承知で棘とパンダを夏油のもとに送っている。
生徒の負担の大きいやり方ではあるが、五条の選択は目的に対してとても合理的だ
こういうところも彼の人間離れした能力の高さと、それ故の五条以外の人間との距離感、それでいて

「そうなりゃ命懸けで止めましたよ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p60
「そこは信用した オマエのような主義の人間は
若い術師を理由もなく殺さないと」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p188

などの台詞からもわかるように、最後の一線はちゃんと守ろうとするひとさじの人間味が見える。

最後に、傑と対峙するラストシーンについて少しだけ。
回想での2人の別れでは傑と目を合わせられなかった悟が、最期しゃがみ込み、傑と目を合わせて言葉を言えたという点には、やっぱり意味があるのだと思う。

また、悟の最後の言葉を受けて、

「最期くらい呪いの言葉を吐けよ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p189

と傑は無防備な笑顔になる。
それを見た後、悟はうっすらと口を開けているのが映る。これは私何の意味があるのかわかってない〜〜悲しい。悟と傑の最期のやりとりに、どれだけの想いと意味が込められているのか、傑の言葉から悟は傑を呪わなかった(悟が傑を呪わなかったのか、傑が悟を呪いとして受け取らなかったのか)のは伝わるけれど、逆に悟は傑に呪われたんだろうか、色々気になるところがあるけどこんなに見てもまだ自分の中で答えが定まってない。
2人が対峙するシーンは特に、単語の言い方ひとつ、呼吸ひとつ、間の取り方ひとつに、ものすごい意味が詰まっている気がする。それなのに、いつもあのシーンはただただ感動して見入ってしまうのでいつになっても冷静に見られず、まだ私は全然わかってないことが多すぎるなぁと思うので全然何も書けない。なんか嫌なまとめサイトみたいになってきた。最悪。とりあえずまた劇場に足を運ぼうと思う。

おまけとして、ここで五条悟についての小ネタを説明しておく。
最初の、高専の教室に貼られている紙(なんか標語とか飾る感じのやつ)には、「天上天下」「唯我独尊」と書かれている。9巻を読んだことのある人はもうわかるだろう。五条悟だ〜〜!!と思って、これを見つけたときは嬉しかった。
ちなみに、「天上天下唯我独尊」という言葉は、文字面から世界で俺だけが1番最強尊い!みたいなニュアンスを感じるし、そう使われるシチュエーションもあるが、仏教的な原義で言うと、天上天下の中で、何も加えることない私のみの状態で尊い、最高、みたいな意味である。
芥見先生が五条にこの言葉を宛てる時、どちらの意味で使っているのかはわからないが、「天上天下唯我独尊」はやっぱりなんとなく五条悟っぽい気がする。

②夏油傑

まずもって、映画化が決定して、初めて夏油傑の声を聞いてから、TVアニメシリーズに出てくるあいつとの声の違いに感動していた。

あと、説明するようなことは何もないただの感想だが、棘とパンダが帷に侵入したことに気づいた時の、「おっと」の言い方がめちゃくちゃ良いからマジで劇場に行ってほしい。
「おっと」の「おっ」の部分が少し吐息っぽくなっていて、「っ」の間が少し長い感じの言い方が本当に最高。最高!!!!!!

櫻井孝宏さんって多分その演技力と声の素晴らしさで惑星3つくらい生み出したことがあると思う。
その上で、夏油傑という人間の中での、「芝居をしている夏油傑」と「素の夏油傑」の演じ分けが本当に素晴らしかった。

私は夏油傑のことを、基本的に「最後まで酔えず正気のまま狂ったフリをしていた男」だと思っている。
自らが自らの矛盾を許せず、頭でっかちに理屈で自分を規定して、理屈で作り上げた枠に自らを押し込んでいく。それがどれだけ痛くても。

何らかの思想を選び信じた時点でその形に自らを変えられるほど柔軟でも器用でもなく、だからこそ、それを論理と理性で補って、無理をしてでも自分の理屈を守る為の振る舞いを自分に課し続けるのだ。
それ故の強さと表裏一体の不器用さを持ち、その「不器用さ」という隙が、夏油が家族と呼んだ一派にあれほど愛されていた大きな要因なのではないかと思う。

ちなみに、私も夏油のこういうところが好きだ。今まで「私は五条推しだから五条フィルター通して夏油も好きなだけで別に……」とか思ってたんだけど、私普通に真っ直ぐに単体として夏油傑のこと好きだったんだ。って映画を見て気づけた。良かった。

そして、劇場版呪術廻戦0の夏油傑は、終盤を除いてほぼずっと芝居をしていたかのように見えた。
夏油にとっての芝居の観客は、相手だけではなく自分もだ。
サトウ(斉藤)さんの相談を受けるシーンでは、ハイ今から悪い教祖やりまーーーす!みたいな感じで襖を開け、どかっと座り、相手の名前を変えていた。
宣戦布告に来て乙骨と話しながら、わざと真希を乙骨の前で猿呼ばわりした。これは乙骨を煽るためでもありつつ、自分のなかで線引きをするためでもあるのだと思う。
また、百鬼夜行で真希、パンダ、棘を全員倒した後、

「乙骨を助けに馳せ参じたのだろう‼︎?」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p145

とひとりミュージカルか?みたいな勢いで喋り始めるシーンがあるが、あのシーンにおける観客は乙骨だ。
五条が2人を送り込んだのが乙骨の起爆剤にする為だとわかりつつ、敢えて宣戦布告の際に学んだように友達を使って乙骨を煽っているのだ。
そういう、夏油が常に「振る舞って」いることがわかるような櫻井孝宏さんのお芝居が本当に素晴らしくて良かった。

そんな夏油が最後、自分すらも巻き込み続けた年会の芝居をやめ、素の自分として話すのが、ラストの五条とのやりとりである。
そのギャップが……もう。

ちなみに、教祖夏油傑のお部屋には、
「愚者に死を」「弱者に罰を」「強者に愛を」
という文字がかけられているのが映画でわかった。
金森のような厚顔な猿を躊躇なく殺す。
一方、夏油は、真希を「猿」と呼びつつも、彼女のことを殺しはしない。あの場面で真希を殺し、棘とパンダを半殺しにしていても、十分乙骨の起爆剤にはなったはずなのに。
そして、夏油は百鬼夜行に至っても家族の逃げ道をちゃんと確保していたように、一度内に入れた人間には優しい。

もうひとつ、夏油の映画のアニオリ描写で私が気に入っている部分がある。
」に対する反応だ。
金森を殺した際の血を「穢らわしい」と言って避ける真奈美に対して、夏油は重傷の真希から流れ出す血を踏んで歩いて行く。
真奈美はシンプルに汚い猿の血を避ける。
夏油が真希の血を踏んで歩くのは、自分の手を汚すこと(足だが)、汚れ役を厭わないという覚悟の表れだと思う。
また、夏油が真希を殺さなかったところからも見えるように、真希のことをだと言いつつも、真希が厚顔な猿どもとは違う存在であることを根底では認識しているのだと思う。

最後に、乙骨VS夏油の、純愛VS大義について触れておきたいと思う。

乙骨の純愛は、過去も未来も体も心も全部里香にあげる、あの一瞬に全てを懸けた、120%の捨て身の純愛だ。

夏油の大義は、
多数の非術師が呪いを生み出し、その呪いを祓うために少数の呪術師が使い潰され命を落とし、非術師はそのことを知らずにのうのうと生きている」という状況を、呪いを生み出す非術師を皆殺しにするという過激な方法で改善し、呪術師の世界を作ろうとすること。

この大義から、いろいろな理屈を取っ払って、原初の夏油の理想に立ち返るなら、仲間の呪術師が傷付けられ使い潰され命を削られていくのが許せない、という思いになる。

しかし、百鬼夜行の時点で夏油は大義という目的のために乙骨を犠牲にすることを選んだ。

多数(非術師)のために少数(呪術師)を切り捨てる世界を許せず、
少数(呪術師)のために多数(非術師)を切り捨てる世界を作ろうとしていた夏油が、その手段として
多数(呪術師)のために少数(乙骨)を切り捨てようとしてしまった時点で、夏油が乙骨に掲げる大義には本質的なひずみがある。

ここで9巻、伏黒甚爾のセリフを引用したい。

「自分を肯定するために いつもの自分を曲げちまった
その時点で負けていた」
芥見下々「呪術廻戦9巻」p102,103

呪術廻戦は、こういう物語なのだ。

③乙骨憂太

前回のnoteで散々言ったことをもう一度繰り返すけど、私的乙骨憂太の好きポイントは、夏油の主張に対して、言ってることが正しいかどうかわからない、という返し方をするところだ。わからないことを自分が理解できないからと否定することをしない誠実さ。最高。
夏油傑という男に誠実に向き合ってくれてありがとう。乾杯!!

その他、乙骨憂太については物語の構成や内容についてのところで今回のnoteでも前回のnoteでも色んな人との関係をたくさん語りすぎて、あえて個人に触れて書くことがあまりなくなってしまった気がするけど、個人的に気になったシーンをいくつかあげる。

まず、乙骨の「」に対する反応だ。
冒頭のロッカーに同級生を詰めるシーンで、ロッカーから血が流れ出している。原作では血は多少ロッカーから溢れる程度で、乙骨を汚してはいない。
映画では、血がロッカーから溢れ出し広がっていく。乙骨は、その血を避けることなく、血みどろになる床に座り続けている
乙骨の罪の意識と、責められている感じの表現である。
それによって、秘匿死刑を了承したことや、

「ナイフ…だったものです 死のうとしました」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p13
「もう誰も傷つけたくありません だからもう外には出ません」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p14

と言ったセリフの説得力が増している。

それから、小学校の任務の後の病院での回想シーン。
原作に載っている里香の設定資料に書かれた、

「その後検査入院した病院で肺炎で入院していた
憂太と出会い、同じ学校に復学」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p58

という1文だけの情報をちゃんと拾い、あれだけスムーズに違和感のない回想につなげたのは本当にすごいと思った。

あとは、なんかもうとにかく緒方さんの演技がすごかった。という話をする。まだ弱い乙骨についての話は前半でしたので主に百鬼夜行中の乙骨について。

まず、真希に嫉妬を露わにし、乙骨に怒られて泣きじゃくる里香に対する

「怒ってないよ」
「嫌いになんてならないよ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p157

という台詞。特に「嫌いになんて〜」の方がめちゃくちゃよかった。
初日の夜に映画の感想を喋っていたとき、私は曖昧な記憶のなかで「嫌いになんてなれないよ?ってとこ、ならないよだっけ?」と言ってしまったくらい、切実さのある言い方だったから。
原作を読んでる時はなんとなく宥めてるだけなのかなって思っていたんだけど、でも里香は乙骨が里香のことを好きだったからこそこの世に留め置かれた存在である。
自分の意図とは離れたところで人を傷つけてしまい、乙骨だってそれによって失ったものは少なくないはずなのに、それでも里香を嫌いになれないからこそ里香はこの世にいるのだ。

あと、これはもうみんなすごいと思ったと思うけど、最後の里香に対する台詞。

「里香 いつも守ってくれてありがとう 僕を好きになってくれてありがとう 最期にもう一度力を貸して コイツを止めたいんだ その後はもう何もいらないから 僕の未来も心も体も全部里香にあげる これからは本当にずっと一緒だよ 愛してるよ里香 一緒に逝こう?」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p181-183

改めて書き起こしてみるとやっばい台詞である。
ここの言い方はほんとうにすごくて、私は原作を読んだ時、確かにこれはやばい台詞ではあるものの、その後の里香の反応を見て、oh…里香ちゃん…ヨカッタネ…みたいな感じになった。
でも映画版を見て、緒方さんの言い方を聞いて、そっっりゃあ里香ちゃんもこの反応になるよな〜〜〜と思いながらベショベショに泣いた。
原作に書かれていた設定資料を読む限り周囲に誰も味方がいなかった里香が唯一本気で好きだった乙骨が、あんなに可愛い女の子だったのに怨霊の姿になってしまった里香に、それでもこの言葉をくれる。こんな姿になってしまっても〜、みたいな自我が怨霊の姿の里香にあったかはさておき、そんなんもう私だったら死んでもいいって思っちゃうよ、と思った。
私はディズニープリンセスで育ったロマンチック星に住む女の子だから里香の方に感情移入してベショベショに泣いたが、あの台詞にそれだけの説得力と重みを持たせた緒方さんの台詞の言い方、マジですごいので劇場であと20回は聞こう。
あと個人的には「逝こう?」のところ語尾上がると思ってたからちょっとびっくりしたんだけど、乙骨の意志の強さが感じられてめちゃくちゃ良いなと思いました!!!!!
「女誑しめ」って言う夏油に「お前がな!!!」って叫ぶ準備して劇場に行ったのにちょっとそれ言えんくなるくらい乙骨くんすごい言い方でした。
純愛があれだけ強いものになるわけだ……。

④祈本里香

里香ちゃん、めちゃくちゃ可愛かった!!!
最初、CV花澤香菜さんって聞いた時、里香ちゃん(女の子のすがた)はわかる〜めっちゃ良い と思ったけど怨霊???どんなんになるん???と思ってたんだけど、小学校で里香が叫んだところからもう既にめちゃコワ可愛いくてこれが里香ちゃん!!最高!!て思った。
なんかカワイイとスキをドロドロになるまで煮込んで煮込んで煮詰め過ぎてしまった結果コワくなった感じのコワさでよかった。

また、女の子の里香ちゃんについて、年不相応な大人っぽさというか魔性の女感、が大きな魅力だと思っている。
映画の中の回想シーンで、

「里香と憂太は大人になったら結婚するの」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p22

と、おませに宣言するシーン。
原作では、公園の中で遊んでいる他の子供については、ワイワイと書かれてるだけで具体的な姿などの描写がない。
しかし、映画では、里香と乙骨のシーンの前にモブの子供2人(男女)が年相応に遊んでる姿が出ているため、比較でより里香の大人っぽさ、おませ感が強調されている
また、これは原作にもある描写だが、「結婚するの」の里香に対する乙骨の返事は、後半の回想にまわされ、ここでは里香が「結婚するの」のセリフを言った瞬間のそのままで車に轢き飛ばされる。
「結婚するの」と言ったおませな可愛さ
その後の怨霊の姿のギャップを際立たせつつ、
「乙骨にとっての里香」の記憶がここで止まっている
ことも示していてすごいと思う。

また、私はさっき乙骨について、ラストシーンの里香に感情移入してベショベショに泣いた話をしたが、乙骨の言い方が良かったのはもちろんそれに対する里香の台詞が真に迫っていたからだ。
怨霊になっても里香は里香で、乙骨を一途に好きなひとりの女の子なんだなぁと感じたからこそ里香を「女の子」として感情移入の対象にできたんだと思う。

里香がひとりの女の子として乙骨を本当に好きだった心情が怨霊の姿の時点でもちゃんと伝わってくることは、解呪後の里香の

「憂太 ありがとう 時間もくれて 
ずっと側においてくれて 里香はこの6年が 
生きてる時より幸せだったよ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p195

の台詞の重みにも影響していると思う。
死後、怨霊の姿になっても憂太が好きで、憂太にも愛されて、だからこそ里香は「この6年が生きてる時より幸せ」だったんだなぁと思うとなんかもう無理。なんならこの感想書きながら泣きそう。

映画を見る特典でもらえる0.5巻で、花澤香菜さんが、里香にとって乙骨の愛は呪いだったと思うか、との問いに対し、

「里香ちゃんに憂太の愛が呪いだなんて言ったら、それこそ「失礼ね」と言われそうです。憂太ったらそんなに私のことが好きで必要なのね。と当たり前のようにその愛を受け入れていそうです。」
芥見下々「呪術廻戦0.5巻」p19

と答えている。
私も映画を見てそう思うし、そういう解釈で演じられた劇場の里香が本当に良かった。

⑤禪院真希

真希について、1番刺さったシーンは百鬼夜行中の乙骨とのやりとりの中で

「アンタなんか生まなきゃよかった」
「禪院家の恥め!!!」
「皆真希みたいになっちゃ駄目よ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p131

と言われていたのを思い出す回想シーン。
幼少期の真希が、酷い台詞を受けて涙を流す描写がある。
0巻中でも、1巻以降でも、真希の実家事情に触れるシーンはあるが、その中で、真希は実家で酷い扱いを受けていた過去があってもそれに立ち向かっていく姿勢反骨精神、真依を守ろうとする姿勢、などに焦点が当てられることが多かった。
今回の映画で、あんな風に気丈に禪院家に立ち向かっていく真希にも、酷い言葉を受けて傷つき、涙を流すしかなかった時期があったのだということが示されていて良かった。

また、真希の家庭の事情を踏まえて見ると、

「呪いを祓って祓って祓いまくれ!!
自信も他人もその後からついてくんだよ!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p46

の台詞にも重みを感じて泣いてしまった。きっと肯定されたことのないまま、先も遠いまま、後からついてくると信じて祓って祓って祓いまくってここまできたのが真希なのだ。

あとは言うまでもないが戦闘シーンももうめちゃくちゃかっこよかった。真希さんは戦闘のときのポーズの決め方みたいなのがすごくかっこいいし、呪具をくるくるくるって回したりするのもすごい映える。

⑥狗巻棘

狗巻棘は言葉に文字的な意味がないので、アニメで声がつくことで心情がちゃんと入ってきて良かったなと思った。
少ない口数の中にきちんと相手を思いやっている空気があるのが、棘の素敵なところだなぁと映画を見ながら改めて思った。

あとは、商店街で乙骨から喉スプレーを受け取った後のシーン。謎のキモい呪霊の攻撃をバク転連発で避けてるのがかっこよかった。
棘は呪言師という性質上あまりアクションシーンが多くないので、こういうシーンが挟まれて良かったなと思った。

乙骨との関係性については以前語った通り。

⑦パンダ

パンダと同級生の関係性については以前語った通り。

パンダは、夏油との戦闘シーンが原作よりかなり盛られててカッコ良かった。ゴリラモードになり、激震掌(ドラミングビート)も発動している。
どこか余裕を持ってひらひら動く(袈裟が風ではためいてふわふわするのもある)夏油と、直線的に力強く動くパンダのそれぞれの対比が良かった。
パンダVS夏油のシーンでは、壁際に夏油が飛ばされ、パンダが追撃しようとしたところで夏油がくるりと壁際で1回転してそれを避けているところ(説明難)が私はお気に入り。

⑧夜蛾正道

彼についてはアニオリが結構あって、そのアニオリがめちゃくちゃ良かった!!!と思っている。

まず、すごーく一瞬のシーンだが、五条が

「僕が傑の呪力の残穢を間違えるわけないでしょ」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p114

と言った後、夜蛾は「傑…」と呟くのだ。
個人的には、夜蛾は「五条が夏油を"傑"と呼んだこと」を復唱したように見えた。
夜蛾は今は学長だが、五条と夏油が高専にいた頃は2人の担任である。
彼らを誰より近くで見てきたうちの1人でもある。
夜蛾は、呪術廻戦7巻にて、

「学生に限った話ではありませんが 
彼らはこれから多くの後悔を積み重ねる 
ああすれば良かった こうして欲しかった 
ああ言えば良かった こう言って欲しかった」
芥見下々「呪術廻戦7巻」p43

と言いながら、夏油を思い返している。
五条と夏油の前に立っていたひとりの教育者として、夜蛾にも思うところがあるのだ。
というのが、「傑…」の一言に込められている。

次に、百鬼夜行の始まりを新宿で待ち受けながら、「建物、インフラの破壊は可能な限り避けろ」という内容の指示をしているシーン。
夏油一派を観察している五条に、「悟、聞いてるのか!」(セリフ違うかも。大体こんなん)と叱責する。
あれほど強くても、いつまでも五条は夜蛾にとっては自分の教え子なのかもしれない。
そして、同じことが夏油にも言えるのではないだろうか。

ちなみに、夜蛾の言ってたことをガン無視して、この後五条はキレてるから遠慮なく赫を発動してビルをバリバリにする。五条っぽいなと思って好きだけど後で怒られるんかな。

⑨家入硝子

硝子は、0巻原作には登場しないので、彼女に関しては存在自体がアニオリだ。
夏油の宣戦布告の後開かれている百鬼夜行対策会議の最後、夜蛾が

「夏油という呪いを完全に祓う!!!」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p126

と言っている間、硝子はひとりで部屋を出ていく

また、百鬼夜行中、次々と運ばれてくる死傷者を見てテキパキと指示を飛ばしながら、硝子は

「本当、面倒なことかましてくれたね、夏油」
劇場版呪術廻戦0より

とひとり呟く。
硝子は五条と夏油の同級生であり、夜蛾同様、過去の2人を1番近くで見ていたうちの1人だ。
具体的に言葉で語られている訳ではないが、彼女にも思うところがあるというのがこの2つのシーンから伝わってくる。
面倒なことかましてくれたね、と言いつつ、彼女の言い方には夏油を真っ向から責める色はなく、どこか情が混じった呆れのようなものが見えるのだ。 

⑩七海建人

ナナミンはもう全員思ってるけど黒閃4連発が見られてよかった。
そのシーンが戦闘シーンとしてめちゃくちゃかっこよかった、というのは勿論だが、このシーンがあって嬉しいなぁと思う理由は、ナナミンが呪術廻戦6巻144〜146ページで黒閃を4連発したことがあると話している件について、呪術廻戦公式ファンブックで

Q.黒閃4発をキメた相手は誰ですか?
A.京都での百鬼夜行にて、1級呪霊数体相手に。
芥見下々「呪術廻戦公式ファンブック」p59

と語られていることにある。
呪術廻戦0巻を映画化します!と決まった時に、映画制作スタッフの方が、こんな細かい情報まで読み込んで映像にしてくれたということ自体が私はとても嬉しい。
あと、そんな七海の戦闘シーンの登場も良かった。これが呪術廻戦12巻69ページで野薔薇ちゃんと補助監督をベンチに座らせて自分は地面に膝ついて話してたナナミンだ!!!!!と思った。

また、七海も硝子同様原作の0巻には登場しないキャラクターである。
夏油が宣戦布告をしているシーンや、その後の作戦会議のシーンで、複雑な顔をしていたのが印象的だった。
七海も夏油の過去と現在を知っている人であり、

Q.呪詛師になった夏油を、どう思っているのでしょうか?
A.責める気にはなれない。
芥見下々「呪術廻戦公式ファンブック」p60

と書かれているように、複雑な思いを持っている。自身も一度はクソ呪術界から抜けてサラリーマンになった経験も持つ。
七海には七海の、夏油に対する思い、そして自分が今ここに呪術師として存在することへの思いがあるのだと思う。

11 冥冥・猪野琢磨

まとめてですいません。
2人も0巻での存在自体がアニオリ。
戦闘シーンはカッコ良かったし、猪野くんは戦闘後でも七海さんのことを話しながら、あんな状況下でも「めんどくせ…」と呟く。
冥冥は冥冥でばっさばっさ敵を倒しながらインセンティブの話とかしてる。
2人とも短い登場シーンながら、それぞれの個性がちゃんと見えていて良かった。

百鬼夜行対策会議時点の冥冥の表情も気になる。
冥冥も夏油と高専の在籍時期はかぶっており、後に冥冥は高専当時の夏油について

「私は五条君より君を買っていたんだよ 
ニヒルな笑顔もチャーミングだった」
芥見下々「呪術廻戦12巻」p71

と語り、

「何故生きてる? 去年五条君がしくじったか?
そもそも五条君と夏油君がグルでこの騒ぎを…それはないな 五条君は1人でこの国の人間全員殺せる 誰かと組む意味も小細工を弄する必要もない 恐らくこの夏油君は偽物だ
芥見下々「呪術廻戦12巻」p71,72

と冷静に渋谷事変の時の夏油傑が偽物だと読み取るなど、五条と夏油の関係性をわかっていた人間の1人だ。
彼女が百鬼夜行をどう思っていたのかはよくわからないが、気になるところだ。

12 伊地知・新田

新田ちゃんも0巻には登場しないので、アニオリで登場して嬉しかった。元気にハキハキ働く姿がかわいい。
伊地知さんについては前回のnoteでミミナナとの話をたくさんしたので割愛。

13 京都校の生徒たち

彼らも原作0巻には登場しない。
短い登場ではあるが、それぞれの"らしさ"が短時間で現れていてよかった。
加茂くんは苦労するなぁと思った。
三輪ちゃんのシン・陰流良かった。

三輪ちゃん←メカ丸(油断するな)
メカ丸←真依(あんたもね)
の連続した流れも良かったし、
三輪→メカ丸→真依→桃、と視点が徐々に上がっていく流れも良かった。

個人的には京都の推しは真依なので真依が出てきて嬉しかった。

14 菅田真奈美

血に対する反応の話は夏油のとこで書いた。
夏油とツーショットを撮るときのキメ顔がめちゃくちゃ可愛くて美人で良かった。
夏油の隣で絶対に一線を超えない女、をやってきた感があって良かった。

15 美々子菜々子

彼女たちの突きつける善悪についての話は以前伊地知さん絡みで書いた通り。

ですが少し追記。
映画ではじめて、美々子菜々子視点で、夏油が呪詛師となった瞬間を見た。
9巻で徐々に清廉な理想が剥がれていき、呪詛師となるに至った夏油は夏油目線で見ていたので。
迫害を受ける美々子菜々子を初めて見た夏油の顔が、驚きというか絶望というか、ショックを受けているようなそういう感じで、その光景は、当時の夏油の理想にヒビを入れた、「夏油が目の当たりにし始めた現実の汚さ」、を遥かに凌駕するものだったのだと思う。
だからこそ夏油は最後の一線を越え、今までの自分を踏み外した。
美々子菜々子を救い、自分は呪詛師となった。
でも美々子菜々子を救った時の夏油だって、酷い現実を目の当たりにしてショックを受けた、まだ10代の少年だ。
今まで歩いてきた道を踏み外し、犯罪者となり、これから先の保証もない。
不安がないはずがない、苦しくないはずがない、美々子菜々子を助けることで、夏油だって覚悟がいる選択を強いられた。

そんな状況の中でも、夏油はまず、檻(?)の中から出た美々子菜々子に笑いかけるのだ。

夏油にとって美々子菜々子との出会いは、既に溜まりに溜まっていたものを溢れさせる最後の1滴だ。
それでも、その1滴となったことで、美々子菜々子にとって夏油は、彼の積み重ねてきたもの、作ってきた居場所、そういうものを全部捨てて私たちを助けてくれた人、になるのだ。

夏油のあの表情だけで、美々子菜々子があれだけ夏油を愛し、崇拝する説得力が生まれていて、美々子が夏油様が言えば黒も白、白も黒、という言葉がとても重い。映画のあのシーンは本当にすごいと思った。
だから、伊地知に投げかける刺すようなとげとげしい言葉の言い方と、夏油について語るときの心酔しているような口調の落差が本当によかった。

お察しかもしれないけど私は彼女たちが実はだいぶ好きだ。

いつもこのシーンで涙ぐんでしまうせいで、次に出てくる推し、五条悟のハイパーカッコ良い戦闘シーンで視界が鮮明にならず困っている。

16 ミゲル

芥見先生的百鬼夜行MVPなだけあってすごかった。ミゲルと戦うことで、五条悟の格が違う最強っぷりが強調され、そのことでミゲルがどれだけすごいかもわかった。
カタコトのセリフなのに、戦闘シーンの緊迫感を削がないのがすごいと思って見ていた。
原作のミゲルは五条と対峙しながら、

「ノルマ マデ アト10分弱…」
芥見下々「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」p167

と考えているが、映画では12分強10分弱、と残り時間を刻んでいる。
あの五条と戦いながら大体じゃなくてちゃんとこんな細かい単位で時間を数えているんだ…と思うとミゲルの凄さが増した。

4.細部のこだわり

劇場版呪術廻戦は、今までも散々述べたが、細部へのこだわりがすごい。
おかげで9回見てもまだ飽きない。
最後に、今までの項目に分類できなかったけど、個人的に気になったシーンやこだわりを感じたシーンを箇条書きにする。意味がまだわかっていないところもある。

・帷の色が、五条は黒や深い紫っぽい感じ、伊地知は黒と緑のオーロラみたいな感じ、夏油は白っぽい感じ、とそれぞれ違っている。

・小学校の任務で里香が顕現した時、原作では「女は怖いねぇ」(p50)という五条の台詞が、「怖い怖い」に変更されている。ジェンダー配慮……??

・小学校の任務で里香が呪霊の体液を見て「りか あか すきぃ」(p50)と言っているのが、呪霊の体液がピンクがかった紫のような色に変更されているのにしたがって、「りか 綺麗なの すきぃ」に変更されている。PG12対策……??

・棘と乙骨の商店街任務、それぞれが呪霊に気づくタイミングに差がつけられている。(原作ではその描写はない)
経験値のある術師である棘は呪霊の存在に気配で気づくが、経験の浅い(ほぼない)乙骨は棘より後、呪霊が喋り始めてから気づく。

・百鬼夜行の後、高専の教室で黄昏ている五条と窓辺で黄昏ている夏油のシーン。教室の映像がながれるが、これは記憶の中の(つまり五条夏油の高専時代の)教室。
机は3つ並んでおり、真ん中の机を挟むように椅子が2つ向かい合っていて、1番廊下側の机には椅子がない。
8巻を読むと、高専時代は、窓側から硝子、夏油、五条の順で座っている。夏油の席に五条が椅子を持ってきて向かい合わせで喋るようなシチュエーションは恐らく過去沢山あったのではないだろうか。
「弱きを助け……」という夏油の台詞の時は夏油の椅子が、「それ正論?……」という五条の台詞の時は夏油の机のところに持ってこられた五条の椅子がうつる。
その後、五条が教室を立ち去る際に映る教室の映像は、実際の(現在の)教室。3つの机に対応するように椅子が並び、五条が座っていた1番窓側の椅子だけが出たままになっている。

・冒頭、オープニングのところで乙骨が長い廊下をこちらに向かって歩いてくるシーンがある。TVアニメでは虎杖が長い廊下を歩くシーンがあり、そことの関連性や対比が何かあるのかしら?と思った

・五条が乙骨と真希の小学校の任務の際に乗っている車のナンバーは、東京312 う 12-075である。12/7は五条の誕生日。

・乙骨の回想内で里香と乙骨が初めて出会うシーンの里香の病室の番号は2105。

・伊地知が乙骨と棘の商店街の任務の際に乗っている車のナンバーは、85-213。

・商店街任務の終わりに乙骨が「里香ちゃんの呪いを解いたら…(中略)…皆の役に立ちたいな」と思っているシーンにうつる左の車のナンバーは05-072。右の車は10-039

・猪野の戦闘シーン中にうつる車のナンバーは20-146

・五条VSミゲルの戦闘シーン中にうつる車のナンバーは80-688

・七海の戦闘シーンにうつる車のナンバーは20-146。猪野くんと一緒……?どういうこと???

・真希の病室のナンバーはそもそも記載されていないのに対し里香の病室のナンバーは書かれている、車のナンバーでも注視すれば読み取れる番号とぼかしがかかっていてそもそも読めないものもある、という点から数字が読み取れるものには何かしらの意味があるのかな?と思う

・乙骨と棘の商店街任務で、商店街に入ってから、商店街内の景色の画が5つ映ってから呪霊が登場する。5つのうちラスト2つは、火災報知器の赤ランプ→「危険」と書かれた文字である。
呪霊が登場するまで徐々に危険に近づいていくカウントダウンのような演出なのかなと思った。

・商店街任務の前、目が赤く光るカラスが飛び去っていくシーンが映画版にはオリジナルで追加されている。カラスを見て冥さん……?と咄嗟に思ったけど別にあの任務に冥さんは関係なさそうだし私はまだ意味はよくわかってない。

・五条が夏油の呪力の残穢を察知する商店街のシーン。「残穢」という言葉は、原作の連載当初は「残り香」と書かれていたが、後から「残穢」に修正されたらしい。でも映画の五条めっちゃ嗅いどったよね……お前…六眼は飾りか?ってツッコミたくなって笑ってしまった。何か意味があるならマジで申し訳ない。でもこのシーンは実は好き。

・百鬼夜行対策会議のシーンで、夜蛾が「総力戦だ 今度こそ夏油という呪いを 完全に祓う!!!」と言った後、夏油が「とか息巻いてんだろうな あの脳筋学長」とそのセリフを回収し、どーんって音と一緒に黒い画面になるの、テンポ感がよくオチがついてる感じで良かった。

・里香と乙骨が一緒に夏油と戦うシーン、乙骨が里香に合わせろって言ったあと、乙骨が口をあけるのと一緒に里香が口をあけてるカット、とても良かった。

・乙骨夏油戦は、お互い構えている状態の時にちょっとタメがあるので、静と動の緩急がすごくて"動"の戦闘シーンが映える。

・エンドロール、乙骨里香→五条夏油 の並びになっていて、そこの2組が対になっているという構造が見えて良かった。

・オープニングでは「呪術廻戦」ってタイトルのロゴ出てくるけどエンディングでは「劇場版呪術廻戦」って出てくる。オープニングは呪術廻戦という物語自体のはじまりのお話だからで、エンディングは映画の終わりであり呪術廻戦という物語自体の終わりではないから劇場版がつくんだなぁ。

他にもまだ細かく見ると面白いところが沢山あるんだと思う。

5.おわり

思ったより2倍くらいの長さになった。
めちゃくちゃ長いし結構話が飛んでわやわやなところもあって申し訳ないです。

こんなんを長々と最後まで読んでくれた人は本当にありがとうございました

繰り返しになりますが、あくまでこれは私なりの呪術廻戦0の解釈であり、正解でも不正解でもありません。これを読んで、確かに!と思うこともそれは違くない?と思うことも否定しません。
また、これは9回視聴時点でのもので、私自身もこれからまだ何度も見に行くうちに思うことが変わってくるかもしれません。

「劇場版 呪術廻戦0」、私みたいに呪術廻戦が本当に好きなオタクは毎日見ながらこんなクソ長感想文を書けちゃうくらい楽しめているし、別に呪術廻戦のオタクでない友達は「今まで見た映画の中で1番面白かった」と言い、姉は「久々に良質なエンタメを摂取できてよかった」「1番好きなアニメ映画は○○なんだけどそれと並ぶくらい良かった」と言い、父は劇場版呪術廻戦を見たその日からTVアニメ呪術廻戦を毎晩少しずつ見始めた。それくらい、呪術廻戦が大好きな人でも別に良く知らない人でも楽しめる最高の映画だった。

劇場版呪術廻戦0がめちゃくちゃ最高だよ!とぜひ色んな人に伝えてください。
劇場版呪術廻戦0をぜひもう一度、何度でも劇場で見てください。

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