カルナータカ州のミールス(OOTA)を食べにいく旅 序
旅のはじまり
6月中旬からおわりにかけて、インドは北・南カルナータカ州の料理を学ぶ旅に出ました。
私はこれまで、カルナータカ西側のアラビア海に面したマンガロールやウドゥピに滞在した経験はありましたが、フブリ周辺の北カルナータカ、マイソール周辺の南カルナータカは行ったことがありませんでした。
2021年にバンガロールで食べた北カルナータカのミールスは、ケーララやタミルなど他の南インドの地域のものと比較しようがなくユニークで忘れられなかったこともあり、次にインドに行く機会があればぜひ現地で味わってみたいなあと思っていました。
カルナータカのミールス(Oota)
過去の投稿では、初めて食べた北カルナータカの食事を以下のようにまとめています。
インド南部の都市バンガロールの北カルナータカミールスを出す店は、一般的なミールスと食事の構成が根本的に違っていて、食事の順序、料理の組み合わせの複雑さが印象的だった。それらカルナータカの食事を現地の言葉でOota(ウータ)と言っていた。
旅の概要
今回の旅は、過去に日本に滞在経験があり、南カルナータカ・ハッサン出身で現在はバンガロール在住の友人が、滞在に関わる全てのこと──料理を学ぶ先から交通機関、宿泊先、すべてをアテンドし、言葉の問題や体調のケア──をしてくれました。
それは、これまでもこれからの人生でも受けることができない献身的なサポートと言えるものでした。こうした友人の助けがあったからこそ、北・南カルナータカの家庭で料理を巡るさまざまなことを学ばせてもらう機会になりました。
カルナータカ料理について
K T. Achayaは『Indian Food: A Historical Companion. 』10章「regional cuisines」のカルナータカ料理の節で、中世・ホイサラ王朝のMangarasa3世が記した料理に関する著作『Soopa Shastra』を取り上げています。
米、小麦、野菜、甘味など数多くの料理が説明がされていますが、著者自身ジャイナ教を信仰していたようで、全般的に扱っているのは菜食料理です。
野菜料理のバジや甘いロティのホリゲ、スナックのジャレビーなど見慣れた料理がある一方で、見慣れない料理も多く、この本からカルナータカ料理の傾向をつかむのは難しいと感じました。
他方で、中世のホイサラ王朝の領域が今のマイソール周辺を中心にすることから、この項でカルナータカ料理として記されているのはこの地域の料理と思われます。
北カルナータカ・キットゥールの料理
北カルナータカのキットゥールでは、ヒンドゥー教リンガヤットを信仰する2つの家庭に滞在して、独特なリズムを反復させてつくる雑穀が原料のJolada rotiとPodi、ライスとあわせる汁気のある料理Saaruなど、Ootaの概要を体系的に学ぶことができました。
南カルナータカ・ハッサンの料理
南カルナータカ・ハッサンでは、ヒンドゥー教ブラーミンの家庭で料理を学び、これらの料理がマイソール周辺に広がりのあるスタイルであることを知りました。またカルナータカといえども、北と南の食事は料理の構成や食事の順序が違うこと、またいずれも食事の順序があることを追認できました。
旅で学んだことと本の記述を比較する
K T. Achayaは、前掲書10章のカルナータカ料理の節で南インドに共通の料理を食べる順序を記しています。私は、なぜ南インド料理の食事の順序がこの節にあるのか、不思議に思っていました。
しかし、今回教えてもらった南カルナータカ料理を提供する順序や食べ方は、本の記述と多くが共通しているため、この節は南カルナータカのフェスティバルフードを下敷きに、他の南インド料理との共通性を比較しつつ書いていったのではないでしょうか。
ただ、これまで紹介したようにタミルやケーララの食事とカルナータカの食事の組み合わせは異なっています。
タミル、ケーララなどの南インドのミールスはサンバル、ラッサムなど共通した料理があるのに対して、北・南カルナータカにこれらの料理はありません──しかしAchayaはhuli(タミルではsambhar、アンドラ・プラデーシュではpappu pulusu)、spicy thin dhal extract(saaru, rasam, chaaru, pulusu)というように()書きで類似の料理として分類しています──。
食事の順序
アパデュライが南インドの祝祭の食事はフランス式(コース形式)がより複雑になる[1]と述べたように料理の位置、サーブと食べる順序が決まっていました。
しかし、南インドという大きな地域ではなく、今回でいえば北と南カルナータカでは料理の構成が違っていて、共通するのは最後のカードライスくらいでしょうか。
最後に
この旅では友人の献身的な助けがあってカルナータカの食事ootaの奥深い味わいに巡りあい、インドの家庭で脈々と伝わる料理をともにつくり、味わうことができました。
アシス・ナンディは──世界の都市でより地方的で珍しい料理が提供される流れを、食がその文化を代表し博物館へと入場するかのようだと揶揄したうえで──誰もそうよばないがエスニック料理は昔からあった。それは「(他者の)料理」が常に生活の一部であり、 耕作や階級の指標として、社会的地位の指標として、あるいは秘教的な儀式として、 冒険家、旅行者、そして19世紀に始まった人類学的な儀式としてと述べています[1]。
家庭料理をつくる多くの機会に立ち会うなかで、これらの料理をエスニック料理やインド料理といった大きなカテゴリーではなく、PやM、Vの家庭の営みとして捉えることができたか未だに考え続けています。
またその中で、料理を学ぶこととは具体的に何を学んでいるか──例えばマサラの味だけではなくロティをつくる動きや、教えられたことをどのように理解するのか──を見つめ直す機会になりました。
脚注
[1]エスニック料理を含めてエスニックなものとは、エスニックとみなされない地域──例えばエスニックレストランと銘打った飲食店が並ぶ大都市──で生活する他者のまなざしからつくられている主張と思われます。
参考文献
Appadurai, A. 1988 How to Make a National Cuisine: Cookbooks in Contemporary India. Comparative Studies in Society and History Vol. 30(1), pp. 3-24. Cambridge University Press.
Nandy, Ashis. 2002 Ethnic Cuisine: the significant 'other'.India International Centre Quarterly Vol. 29, No. 3/4, India: A National Culture? (WINTER 2002-SPRING 2003), pp. 246-251.India International Centre.