少年
店に入ると美しい少年がいて、よく見ると出産を来月に控える前職の上司だった。鼻筋が細く、高く、指も細く、首も細く、細い身体の中腹からふっくらと命を膨らませている。
高校生のころは同性の友人であっても恋人のように束縛したくて、そんな熱も今は冷めたのに、なぜかこの人の夫の存在を考えると私は眩暈がするような思いだ。
会社を辞めるとき、この人の連絡先だけ聞いたこと、この人を食事に誘ったこと、この人に夫との馴れ初めを冗談混じりに聞くこと、この人に自分の恋愛について話すことは、どれも恋人がいる異性を唆そうとするような浅ましさが混じっているような気がする。
「お久しぶりです」
私が声をかけると、やはり変わっていない、けれど少しふっくらしたような頬を持ち上げて口だけで笑う。瞳が鋭い。
「わあ、どうしようかな私、冷麺も美味しそう」
恋しているという気持ちとは少し違う、でも、この、もっと仲良くしたいとか、でもやはり気が合わないような、それでもここにいたいような、この気持ちはなんなんだろう。
「産休今週から始まったんでしたっけ」
「そうそう。それで暇なんだけど、かえって暇なのも嫌だなって、コロナのときとかほんとだらだらしちゃったから。で、todoリスト作っちゃった。それチェック入れるのが楽しくて。産休なのに休んでないっていう」
「めっちゃ…さんらしいですね。コロナのときは何してたんですか?」
「部屋の拭き掃除、1日3回やってた」
「あははははは」
「え、今日は?」
「あ、化合物ちゃんとのランチも入ってるよ。あとね、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁作る」
スマホのメモに入ったtodoリストを見せられる。誰かからラインが来たのが一瞬見えた。
サムギョプサルをまだ食べている最中に私は聞いた。
「あの、今聞くことじゃなさすぎるんですけど、この後どうしますか?」
サンチュを噛み切りながら話しづらそうに笑った。
「本当に今じゃないね。えー、どうしようか」
「あの、妊娠されたって聞いて。それで何か、そのことに対してお祝いを渡したくて」
「ええ、お気持ちだけで十分です」
「いや、直接聞いたらそりゃそうおっしゃるだろうなっていうのはわかってたんですけど、妊娠のお祝いをするのが失礼になることもあるって見たから、迷惑でないかどうか、率直に直接聞きたくて」
それで今は古本屋にいる。
「この辺に絵本の古本屋さんがあって、そこで、化合物ちゃんの選んだ本をこの子のために買ってほしいな」
外ではこぬか雨が降っていて、店の中が巣のように感じられる。
もっとここにいたいような、でもこの人を愛しているからこそ、居心地の良い休めるところに帰したい。
私は影になった機関車を描いた絵本を選んだ。
そして、その人が気になっていた動物の描き方という本も買った。
レジで出すと、店主が「この本の作者、…っていう人なんですけど、とても音楽的で。擬音とかもそうですけど、話の構成が音楽みたいで」と軽く話しながらサッと渡した。
「なんか、良いですね。絵本の古本屋さんって。あそこにある絵本、他の子どもも読んだってことじゃないですか」
と私は言った。
傘を2人とも差して、ちょうど子どもが1人入るような隙間がその人ととの間にできる。
車の行き交う狭い歩道で、来月生まれる男の子の名前を聞いた。美しく、大切な響きだった。
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