不妊治療を諦めたお話
※注意▶完全に個人的な内容なので、興味ない方はどうかスルーしてください。
ただ自分の気持ちを整理するために書いておきたかっただけなので。
およそ8年に及ぶ不妊治療が終わった。
妊娠してクリニックを卒業するのが目標だったけれど、結果は奮わず。子どもを持つことは諦める決断をした。
39歳。
世間的にはまだ可能性があると言われる年かもしれない。でも、もう頑張れない。
気力・体力・経済力が揃っていないとできないことだったけれど、どれも限界だ。気づいたらもう、結婚して12年が経とうとしている。
1.不妊治療を始めるまで
そもそも、自分が不妊治療をすることになるとは想像すらしていなかった。
結婚当時、私は28歳、夫は31歳。毎月規則正しく生理は来ていたし、お互いに持病はないし、まあ1~2年すれば自然と出来るだろうと思い込んでいた。
2人くらい欲しいね、男でも女でもどっちでもいいね、と話していた頃が懐かしい。
結局、何年経っても一向にその気配がなく、私たちより後に結婚した友人たちがどんどん妊娠報告をしてくる中、本格的にクリニックに通い始めたのは32歳。結婚して4年目のことだった。
もっと早く行くことができなかったのは、仕事が原因だった。
私はその頃飲食店でアルバイトをしていたため、すでに出来上がっているシフトを崩すのは無理な話だった。
不妊治療をするに当たって、真っ先にぶち当たる壁が「仕事を突然休まなければならない」というスケジュールの問題だ。
あらかじめクリニックに行く日が分かれば、一ヶ月前から休みを申請することができるけれど、不妊治療は全て生理の周期に合わせないといけない。いくら規則正しく生理が来ていても、2、3日ずれることはざらにあるから、はっきり「○月○日に休む」と事前に言っておくことができない。
突然、「明日休みたい」とは到底言える環境ではなく、飲食店でのアルバイトを辞めて、ようやく通院できるようになった。
けれど、専業主婦になったわけではない。2つ目の問題が、金銭面だった。
まだ保険適用がされていなかったため、10割負担での治療。後で申請すれば市から助成金が出るとはいえ、一時的に数十万のお金が出ていくことになる。治療の中には、10万以上かかるのに助成金が出ない検査もある。当然、私も働かないと暮らしていけない。
次のアルバイト先を探して今のところに面接に行った時、正直に「不妊治療をしたい」と話した。
「急に休まれるのは困る」「入ったばかりで妊娠して辞められたら困る」という返答を覚悟していたが、年配の女性の店長はじーっと私の顔を見つめた後で真っ先に、「辛いでしょう」と言った。
続けて、「私も、14年子どもが出来なかった」と。そんなふうに寄り添った言葉をかけられたのは初めてで驚いていると、
「事情は分かりました、一緒に働こう」と言ってくれた。
この職場と出会ってようやく、不妊治療と仕事を両立できる環境が整った。
2.基本検査から体外受精へ
東北の田舎に、不妊治療を専門にしている病院はほとんどない。通院を始めたクリニックは平日でもいつも激混みで、2時間待ちは当たり前だった。
最初は基本的な検査。卵子の残数検査、卵管が詰まっていないかを調べる卵管造影(死ぬほど痛い)、夫は精液検査。
そこで初めて、夫の精子の運動率が著しく悪いということを知った。42%あれば正常なところ、数度の検査で良くて20%、悪ければ7%。
私の方は、子宮の中に筋腫があることが分かった。悪性ではないけれど、10cmくらいの大きさ。結局、お互いに不妊に繋がる原因を持っていた。
それでも、まだ自然妊娠の可能性は十分にあるということで、タイミングから始めることになった。何度か挑戦したが上手くいかず、次は人工授精。採取した精液の中から先生が状態の良いものを選び、ちょうどいいタイミングで子宮に入れる方法だ。
これも3回挑戦したが、結果はダメだった。
「体外受精にステップアップしますか」
と、先生に言われた時、夫は「出来るだけのことはやればいいんじゃない」と言ったけれど、私にはためらいがあった。
既に不妊治療についてたくさん調べていたので、人工授精から体外受精へのステップアップが、費用面でも身体面でも桁違いになることを分かっていたからだ。
それでも、職場の理解という後押しを得てステップアップすることにした。ここまで来たら、やれるところまでやってみようという気持ちだった。
3.初めての採卵から移植、判定日
初めての採卵で地獄だったのは自己注射だった。
そもそも、子どもの頃から看護師さんにされる注射も大の苦手で、直視できずにいつも目を逸らしては必死に耐えているくらいだったから、自分で自分に注射を打つ行為が本当に辛くて辛くて仕方なかった。
毎日決まった時間に、自分のお腹に針を刺す。1.5cmほどの長さの針を、全部刺し終わるのに10分はかかる。怖くて手は震えるし、涙はぼろぼろ出てくるしでひどい有様だった。
針を刺したら、注射器のお尻を押し込んで薬を入れる。これが痛い。もう一度針で刺されるような痛み。痛いのが分かっているから自分で押すことができず、夫に手伝ってもらった。
そうして初めての全身麻酔、採卵。取れた卵子は15個だった。
そのうち5個は精子を振りかけて自然に受精させようとしたが全滅。10個は、状態の良い精子を選んで卵子に直接注入する顕微授精だったけれど、胚盤胞になって凍結できたのはたった3個だった。
その結果を聞いて、やっぱり自然に妊娠するのはとても難しいことだったんだなと実感した。
胚盤胞まで成長し、凍結できた受精卵を初めて移植した時は、もうこれで妊娠できるような気持ちになって、大して体に変化がなくても結果を聞きに行くのを楽しみにしていた。
夫も休みを合わせてくれ、一緒にクリニックに行った結果は、陰性。着床すらしていなかった。
期待しすぎていたんだろう。ショックでショックで、お会計をするまでは耐えていたけれど、クリニックを出て車に乗った瞬間号泣した。
大体出産予定日はこのくらいになるだろう、職場の人に報告したら喜んでくれるかな――そんなふうに、移植から判定日の間は楽しい想像だけしていたのだ。
その時に夫が言ったのは、「そんなに泣く?」という実に不思議そうな言葉だった。
そもそも数字で、30代半ばの体外受精の成功率はせいぜい3~40%だと分かっている。
次の卵もあるんだし、一回一回に感情移入してたら自分が辛いよ、と。
夫の考え方はいつもシンプルで正論だ。悩みがちな私はそれに救われてきたこともあった。
けれど、この時はただ悲しかった。この一回に対する思いの違い。ただ単に卵その1、卵その2ではなく、受精卵になった時点で私にとってそれはもうまだ見ぬ我が子だった。
男の子だったのか女の子だったのか、どんな顔をしていたのか、どんな性格だったのか。会いたかったけれど産んであげることができなかった。
着床しなかった時点で育たない卵だったんだろうけど、一度お腹に入った以上、自分に責任があるような気がした。
夫の言うことは間違ってはいない。いちいち感情移入していたら、自分が辛いよ、もっと楽に考えた方がいいよ、という彼なりの優しさだったのかもしれない。
でも、この時の私は一緒に困難に立ち向かうパートナーであるはずの夫に突き放されたような気がした。どんな正論を言うよりも、ただ一緒に悲しんでほしかった。
代わりに悲しんでくれたのは2人の妹だったし、悔しがってくれたのは職場の人たちだった。
自分の感情に寄り添ってくれた人たちがいたおかげで、気持ちを立て直すことができた。
でも何となくそれ以降、また同じことを言われるのが嫌で、判定日の結果は一人で聞きに行くことにした。夫のことが大好きで大切な気持ちに変わりはないけれど、この時の言葉に傷ついたことは、きっと一生忘れられないと思う。
4.採卵4回、移植5回
最初こそ調子よく15個も採卵できたものの、凍結胚はことごとく着床せず、結果的に採卵を4回、移植は5回やることになった。
自己注射が無理なことがよく分かったので、先生に頼んで看護師さんに注射を打ってもらうためだけに通院した。
幸い、職場からクリニックまではすぐ近くの距離だったのでできたけれど、夜の9時に私に注射を打つためだけにクリニックを開けてくれた先生には本当に申し訳なかった。
採卵は何度やっても慣れることはなく、全身麻酔はいつも悪夢を見ているようで気分最悪だったし、せっかく採卵したのに1個も取れなかったこともあった。
そうしているうちにコロナ渦になって職場の環境も大きく変わり、部署を異動することになった。
新しい店長は私よりも若い独身の男性で、戸惑いながらも不妊治療に理解を示してくれた。
つくづく思う。職場の理解無くしては不妊治療は絶対に無理だ。
採卵の周期も移植の周期も、たくさんの注射や薬を接種して体調がいいとは言えない状態だった。一度、着床したものの初期流産になった後は、反動のように凄まじい生理痛が来て、早退した上に翌日も仕事に行くことができなかった。
突然休みたいと言っても、「分かった、こっちは大丈夫」「まず体休めて」と言ってくれる人たちばかりの職場だ。どれほどありがたかったか。
40歳を目前にして、残る凍結胚はあと1つになった。
これがダメだったら、もうやめよう。また採卵からやるのは到底無理だ。気力も体力ももう持たない。
そう決めて最後の移植に臨んだけれど、結果は着床すらせず。夫と話して、子どもを持つことは諦めることにした。
クリニックから帰宅して旦那に結果を告げた時は平気だったのに、治療を諦めるという報告をしたら、父親から、
「大変な治療を続けてきたことに、改めて敬意を表します」
というメールが来て、初めてぼろぼろ涙が出た。娘をずっと対等な一人の人間として接してくれた父らしい言葉だった。
5.諦めるという選択
元々夫は、「大変なのは自分じゃなくてあなただから、俺が『やって』とは言えない。あなたがやるかやらないか決めてほしい」と最初から言っていた。
だから、8年の間ずっと、「私が諦めたらそこで終わる」という思いでやってきた。
次こそは、次こそはと思いながら、あっさりスタート地点に戻される絶望感。
やればやるほど積み重なっていくどころか、時間は経ち年を取り、可能性が減っていく焦り。
意識しないようにしていたけれど、やっぱりプレッシャーだったのかなと思う。
自分の子どもを抱いている夢を何度も見た。
夫に似ている時もあったし、私に似ている時もあった。体温も重さも本物みたいで、目が覚めた時にそれが現実じゃないことで泣いた日もあった。
夫の両親は、孫を急かすようなことは一切言わず、「あなたたちが仲良くいてくれるだけで十分」と言ってくれたし、私の両親と妹たちは、「どんな形でも応援するから、後悔だけはしないで」と言ってくれた。
友人も、職場の人たちも、励ましてくれる人しかいなかった。そういう点では、本当に恵まれていた。
不妊治療してます、と言うと、いろいろな反応が返ってくる。
「治療やめたら出来たっていう人聞いたことがある」
「子宝祈願で有名な神社にお参りしたら出来たよ」
声を大にして言いたいけれど、「人による」のだ。実際それで出来た人もいるんだろうけど、自分はそうじゃない。治療をやめたら出来ないのは数字でもう明らかだし、いろんなところにお参りに行った結果、やっぱりダメだった。
ただ「そっかぁ」と言うだけが一番正解のような気がする。聞かされた方も困る話だろうし。
費やした時間が無駄だったとは思わないけれど、いい経験だったとも思えない。できれば、こんな経験したくなかった。
痛い思いも辛い思いもせずに、自然に子どもを授かることができたら良かった。世間的にはそちらの方が多いのに、私には途方もない奇跡に思える。
どうしてみんなできていることが自分にはできないのか。一番の目的である妊娠ができないんだったら、子宮も生理も何のためにあるのか。
子どもを持ったら持ったで大変なことは百も承知で、妊娠がゴールじゃないことも分かっている。けれど、不妊治療をしているとやっぱりそこが目標になってしまう。
ようやく保険適用されるようになって、苦しむ人たちが少しでも楽になればいい。
クリニックがいつもあんなに混んでいたことの意味も重さも、そこにいた一人だから分かることだった。
しばらくは体と心を休めて、自分のために時間を使って過ごそうと思う。
今すぐには無理かもしれないけれど、もっと何十年も経って気持ちの整理がつけばいい。