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京本大我の「届け!」について語りたい
前回のnoteにたくさんの反響があり、本当に驚いた。
自分が何一つ優しいことをしたわけではないので恐縮だが、スト担さんたちから頂いた言葉の数々は、改めてSixTONESを好きになって良かったと思えるものばかりだった。
温かい言葉をたくさん頂いた当の姪っ子は、最近機嫌が悪いとYouTubeで「ABARERO」を流すらしい。心がABAREているんだろう。
無言の抗議としては間違ってはいないが、何となく申し訳ない気持ちになり、一応妹(姪っ子の母親)には謝罪しておいた。
さて、本題。
6人それぞれの「声」や「歌」について、最低1本ずつは書こうと思いつつ随分時間が空いた。
きょもと北斗、どちらも書きたいことはあるけれど上手くまとまらなくて。
でも、先日のライブで生歌を聴いて、ようやく少しずつ形になりそうだ。今回はきょもについてのお話。
きょもの歌声は、曲によってがらりと表情を変える。恐らく、歌に詳しい人でなくても分かるくらいにはっきりと。
一番最初に「ん?」と思ったのは、「フィギュア」を聴いた時だった。
イントロなし、歌い出しはジェシー。その次に歌うのがきょも。
ここ!
だらしない自分に 終点を見ている
たったこれだけのワンフレーズで、「声が笑っている」と思った。
まだオープニングでしかないこの一瞬で、曲のキャッチーさ、爽やかさ、軽やかさが見えるくらい、くっきりと声に「表情」があったのだ(特に“A”の母音の鳴りがとても明るい)。
「曲によって声の表情を変える」ということは、歌い手にとって一段階上のレベルだ。
それは、ピッチの正しさや言葉の処理、強弱の表現といった歌の基礎が出来た上の、さらにその先にある課題。
もう1曲、明らかに声の表情を意図的に変えているとはっきり分かる代表が、「シアター」だと思う。
サビの、
シアター 謳歌していく
の、がなり方。
この曲自体、全員がクセ強めの歌い方をしていて怪しい世界に招くヴィラン感があるのだが、きょもの声には特に、何か人外のヤバイものが憑依しているのかと思わせられる。
「フィギュア」でのポップで明るい声とはとても同一人物とは思えない。
過去のnoteで、声質(声の硬さ・柔らかさ)や音色(おんしょく。声の明るさ・暗さ)について書いたが、「声の表情」はこれらとは少し違う。音色の一歩先にある表現のことだ。
昔からよく聴いている歌手にサラ・ブライトマンがいる。彼女はまさにこの「声の表情」を使い分けるのが凄まじく上手い。
ポップスならポップスらしい声、オペラならオペラらしい声、クラシックならクラシックらしい声……。
同じ人が歌っているとは思えないくらい、アルバム1枚の中で次々と発声自体が変わる。そして注目したいのが、サラ・ブライトマンもまたミュージカルの出身だということだ。
京本大我を語る上で外せない要素、ミュージカル。
劇中に数々の歌があり、その歌でストーリーを語ったり、登場人物の気持ちを代弁する生の舞台。単に歌を歌う以上に、感情を客席に届ける技術が求められる。
少クラのセレクションスペシャルで、なにわ男子の大橋くんと2人で進行をしていたきょもが、「歌のこだわり」を聞かれて、
「歌い慣れてくると疎かになりがちな、歌詞の意味だったり心をこめる、みたいなのは、要所要所で初心にかえってやるようにしてる」
と答えていたのが印象的だった。当たり前、だけど当たり前じゃない。ステージで歌う時には、同時に考えないといけないことが山ほどある。
歌詞を間違えないようにすること、その曲に関して注意しないといけないこと、動きがある場合は移動のタイミング(合唱でもたま~に振り付けありで歌ったりする)。彼らはがっつりダンスもするから尚更だ。
心をこめて歌う、この曲を通して何を伝えたいかを聴いている人たちに届ける。
ステージで歌うことの意味は、これに尽きる。けれど、一番後回しになりがちでもある。
歌い手がこれを意識しているかしていないかで、曲の説得力は全く違ってくる。
個人的な話になってしまうが、数年前に合唱団の仲間が突然他界した。まだ若かったけれど突然の病に襲われ、当たり前に練習場で「またね」と別れたのが最後になった。
団員は皆ショックで、その年の演奏会もとてもできるとは思えず、中止しようかという話も出たが、強行したのは指揮者だった。
「前を向け、彼のことを想うなら自分たちにできるのは歌うことだ」
発破をかけられ、演奏会をなんとかやり切った。その時のアンコールで最後に歌ったのが、「前へ」という曲だった。東日本大震災を受けて作られた合唱曲だ。
目を閉じれば あなたと過ごした時のことを
あなたと共に歌ったことを思い出す
音楽の終わりが あなたとの別れではない
音楽がまたよみがえるように
何度でも 何度でも あなたを思い出そう
あなたとの思い出を胸に 一歩一歩 前へ
勝手に涙がこぼれてきて、最後まで懸命に歌った。歌としての完成度としては、決して高くなかったと思う。
けれど、終演後にたくさんのお客さんから「感動した」と声をかけられた。
今まで20年以上合唱のステージに立ち続けて、たくさんの曲を歌ってきたけれど、本当に心からの思いを込めて歌えた、と言える曲は少ない。
あの時歌ったこの曲は間違いなく、私たちの心からの叫びだった。もう二度と会えない仲間に届いてほしくて、懸命に歌った歌だった。
簡単に比較できることではないけれど、先日SixTONESの歌を生で聴く機会に恵まれ、ヒリヒリと痛いほどに感じたのは、「届け!」と言わんばかりの熱量だった。
雑誌のインタビューやラジオ、ブログなどの様々な場面で、メンバーはライブにかける想いを語ってくれていた。
流れを重視してセトリの曲間まで1秒単位で調整したこと、その日来てくれた人の「特別」になれるよう、日替わりの曲を入れたこと、そして何より、毎公演全力でやる、という当たり前のようでいて当たり前じゃないこと。
きょもが言っていた、「心をこめて歌うこと」。
それが口先だけじゃないのだと、「ふたり」で飛び出したとんでもないロングトーンを聴きながら実感した。
ミュージカルで培った経験値を元に、聴いている人に「届ける」歌を歌うことは、きょもが先陣を切ってメンバーを引っ張っていっているように感じたライブだった。
そして、それを確かに「受け取った」と感じられる、観客の熱量だった。
歌い手としてはまだまだ若手。
これから先、きょもがどこまで表現力を伸ばして私たちに「届けて」くれるのか、ものすごく楽しみだ。こっから!