「10月の珈琲 Peru:勝っても負けても」
勝ち負けなんて、今となってはどうでもいいこと。
Peru:勝っても負けても
足裏で地面をつかんで
最後に託されたバトンを振りあげた
舞い上がった砂ぼこりが
からだに張りついて離れない
あまくなりかけの青いみかんは
ほんのすこしだけ酸っぱかった
秋空に勝ちも負けもまろやかに溶けていく
秋に早生みかんを見かけると、思い出すことがいくつかある。
そのなかのひとつ。
青くて甘酸っぱく、そして、じゃりっとした苦い後味が残る思い出は、Peruで表現したいと思った。
記憶に残っているリレーでは、アンカーのことが多い。
絶対にアンカー以外のこともあっただろうに、なぜか、誰かにバトンを渡すシーンは記憶から消えている。
それと同じくらい、自分のチームが運動会で勝ったのか負けたのかも記憶にない。
勝つために走っていたのに、結果が記憶にないというのも不思議なものだ。
誰かが言いはじめた裸足で走った方が足が速くなるという言葉を鵜呑みにしていたわたしたちは、日頃から、運動場を裸足で走っていた。
そして、運動会でももちろん、裸足で走っていた。
最後に託されたバトンを振りあげながら、足裏は運動場の砂と、時々、存在感のある小石を感じては、ちょっとした痛みを感じていたのを覚えている。
ただ、そこで、なぜか記憶は途絶えてしまう。
ゴールの瞬間さえもなく、わたしの手のなかに、青いみかんがあらわれるのだ。
青いみかんを持ったわたしの身体がじゃりっとしているのは、運動場の砂に違いない。
誰もが、懸命に、足裏で地面をつかみ、蹴りあげながら走っていたから、運動場には砂ぼこりが舞い上がっていた。
その砂の感覚がとれないままに、お弁当についていた甘くなりかけの青いみかんの皮を剥いた。
その瞬間、手のなかで弾けた酸っぱさは、運動会の日のよく晴れた秋空と同じくらい爽やかだった。
自分のチームが勝ったのか負けたのか。
きっと、それはどうでもいいことで、必死にゴールを目指しながら、地面をつかんで蹴りあげていたことが、一番大切だったのかもしれない。
10月の珈琲「Peru:勝っても負けても」の甘くなりかけの爽やかさとちょっとした苦さ、そして、それらがまろやかに溶けていく感じ。
それらは、運動会で食べた青いみかんにまつわる思い出を表現したいと思って、焙煎した珈琲豆だった。