いじめる理由といじめられる理由
「あいつウザいわ」
「え、キモい」
「お前来んなよ」
何気ない日常の言葉
仲の良い友達なら、笑って言い合うような言葉かもしれません。
でも、感じ方は人によって違うので、そんな何気ない一言で深く傷ついてしまうことがある。
誰しもが理解している感覚です。
それだけでなく、表面的にはどう聞いても傷つけるような表現でなくても、明らかな攻撃の意図がなくても、直接的な働きかけがなくても、
受けた側が、苦痛を感じたら、
それは「いじめ」です。
いじめ防止対策推進法では、そう定義しています。
つまり、いじめている側に、いじめているつもりがない場合があるのです。
気づいたら、いじめの加害者になっていることは、実は多いのです。
だから、子どもたちには、
「いじめをしてはいけません」と教えるよりも
こういう言葉が、自分と違う感覚や立場の人を傷つける事がある、
と思慮深さを身につけられるよう教えてあげねばならないと思うのです。
そして、大抵の場合、
いじめられた側の主張と同じく
いじめた側にも主張があります。
ここでよく間違えてしまうのは、
「お互い様」=相殺
にしてしまうことです。
お互いに主張があることは仕方がありません。
だけど、だからといっていじめが帳消しになることはないのです。
人を傷つけてしまったという事実に向き合い、自身の思慮の浅さを内省することを促すことが大人の責務です。
私は常々、
いじめられる側にも落ち度はあれど、それは「いじめる理由」にはならない
と思っています。
人は、基本が欠点ありきなので、凸凹があります。
だけど、その凹んでいるところにつけこんで、傷つけていい理由には絶対にならないのです。
また、いじめられる側の心理的な揺れ動きと同じように、いじめる側にも何らかの心理的な不調があることも忘れてはなりません。
未成熟な子供であれば尚更です。
勉強への不安、親からの叱責、
体育いやだな、歯が痛いな、寝不足だな、嫌なニュース見たな、雨だな
どこかに必ずあるのです。
それを無理に見つけ出す必要はありません。そういう何かの不安材料を抱えているかもしれないと念頭におくことで、接し方は変わるし、捉えも変わる。
結果的には伝わるものも変わります。
わが子もいじめの加害者になる時が来るかもしれません。今、そうなっているかもしれません。
当然そうなってほしくはありません。
だけど、「誰かをいじめたりしてない?」なんて聞いたって、答えが返ってくるはずはありません。
だからまずは、抱えているかもしれない不安感を汲み取るように「何か困ってる事はない?」と聞いてあげたいと思っています。
一方、
一部で明確な意図によるいじめがあります。
それによって、
学校に行きたくない、
人のことが信用できない、
自分なんて存在しなくていい
と思ってしまう子供がいることも事実です。
そういういじめは絶対になくさなければいけません。
理想論でも何でも、絶対に諦めてはいけません。
大人が諦めたら、子供に救いはありません。
私が教育者だからとか関係なく、
全ての大人の責務であると考えています。
だからこそ、今一度言いたい。
メディアも世の中もいじめの件数が増えていることを嘆くより、
大人の世界の「いじめ」やら「ハラスメント」やらをなくす方法を考えませんか?
大きな仕組みがなくたって、自分の身の周りのそういう状況を変える事はできるはずです。
大人にその努力ができないのなら、子供にできるはずがありません。
大人の世界のいじめの件数を数えれば、子供の比ではないでしょう。
もちろん、大人のいじめを定義する法律はありませんが。
私は、一人の大人として、その責務に向き合って生きたい。
そういう人間性を身につけたい。
まだまだ道のりは長いですがね。