Andare all'opera
序曲
これまで私が生で鑑賞したオペラといえば、東京藝大の学生たちによる『フィガロの結婚』ただ一つ。耳にしたことのある他の作品といえば、レコードやDVDを通して触れた『ドン・ジョヴァンニ』や『愛の妙薬』があるくらいだ。オペラの世界は、私にとっては未だ遠い、けれどもどこか魅惑的な異国の地であった。
そんな私が、心の片隅に眠る一抹の好奇心を掬い上げ、勇気を出して新国立劇場の扉をくぐった。その瞬間から、日常という狭い舞台から一歩踏み出し、音楽と物語が渦巻く世界への旅が始まるのだ。果たして、私はどんな風景を目にし、どんな音に心を震わせることになるのだろうか——オペラ初心者の私にとって、それは未知への冒険だった。
第一幕
空から降り注ぐ日差しは、まるで燃え盛る焔のように大地を焦がし、空気は重たく、熱が絡みつくように体を包み込む。風は止まり、すべての時間が溶けてゆくかのようにゆっくりと流れる。木々の葉は静かに垂れ下がり、遠くから蝉の鳴き声だけが、微かな命の証として響く。息をすることさえ、熱に抗う行為のように思われる、そんな夏の夕方。リーマン達に紛れて乗り込む満員の日比谷線。そこで私は新国立劇場から一通のメールを見る。オペラ公演のお得な情報だ。気になって少し調べてみると、どうやらその演目は悲劇らしい。悲劇と聞くと、私の心のどこかに深く引き込まれるような感覚が芽生える。クラシックを通して人生の儚さや切なさに魅了されるのは。面白そうだと思った。
劇場に足を運ぶと、そこは私の日常とはかけ離れた世界だった。煌びやかな服を身にまとった余裕のありそうな大人、洗練されていて魅力的な人々が次々と目に入る。私など、まるで異国の迷子のように感じた。だが、そんなことはすぐに忘れ去られる。やがて照明が落ち、幕が上がった。舞台はまるで生きた絵画のように展開し、音楽が体を包み込む。
オーボエの音色からオーケストラのチューニングが始まる。オーケストラが携わる芸術の、Aから始まるチューニングを聴くたびに、オーボエとは、なんて誇り高き美しい音色なんだろうかと、思わず陶酔する。今日は休憩2回。つまりそれが3回も聴ける。私はこの時既に、幸福に満ちていた。
この日足を運んだ公演は全3幕に分かれており、2度の休憩があった。
幕間のロビーに足を踏み入れると、そこは舞台とはまた別世界の不思議な空気が漂っていた。きらびやかなロビーの明かりが、シャンパンのグラスに映り込み、泡が静かに踊っている。とはいえ、ちらりと目に入ったメニューに書かれた値段は、思わず息を飲んでしまうほどだ。
耳を澄ますと、あちらこちらから飛び交うのは流暢な英語やイタリア語。異国の劇場に迷い込んだような錯覚に陥る。蝶ネクタイを締め、完璧にスーツを着こなした紳士たちが、軽やかな足取りで会話に興じる姿が印象的だ。その横で、品のある着物を纏い、美しい所作でグラスを口に運ぶマダムの姿。指先まで計算された優雅さが、舞台とは別の美しさ、非日常を感じさせた。
その一方で私は、仕事帰りの重たいリュックを背負い、弁当箱やパソコンを詰め込んだままの姿。コンビニで買ったお茶のペットボトルを片手に、その華やかな世界をそっと眺めている。目の前のマダムの手にあるシャンパンと自分の緑茶が、まるで別の次元の飲み物に思える。だが、たまに私と同じような若者を見かけると、何とも言えない親近感が湧いてくる。「ああ、ここにも私のような人がいるんだ」と、心のどこかで小さな仲間意識が芽生える。
ふと視線を移すと、淡々と料理をこなすシェフが一際目を引く。彼らもまた、この空間の一部を担っているのだ。ロビー全体が、音楽と美食、そしてさまざまな人生を交錯させる、ひとときの舞台となっているのを感じた。
第3幕のクラリネットソロとテノールのアリアが響き渡った瞬間、私の目から上質な涙が落ちた。言葉では言い表せない感情が、音楽と共に心に押し寄せてきたのだ。これまで感じたことのない、深い何か。歌声が私の心の奥底に触れ、あたかも私自身の悲しみを解き放つかのようだった。
トスカがスカルピアの名を叫ぶラストシーンには、怒りと絶望、そして復讐の感情が混じり合っていた。トスカの哀しみと強さが、舞台を超えて私の中に入り込んでくる。毎日、現実の喧騒に紛れていると、トスカの姿が脳裏に浮かび、いつまでも私をその情熱的な世界へと誘い続ける。
私自身、社会に馴染むことが難しいと感じているが、トスカのように強く、自分の信念を持ち続けることができればと思う。彼女の苦悩と闘いを通して、自分自身の困難も乗り越えられるのではないかと感じるのだ。オペラが私に与えてくれるのは、ただの音楽や物語ではない。それは、自己を見つめ直し、困難に立ち向かう力を授けてくれるものなのだ。
トスカは今日も私の心の中で生きている。彼女の強さと情熱を思い出しながら、私は今日も一歩踏み出していく。
その夜、劇場を後にする頃には、私の心には一つの変化が訪れていた。新たな感動を求める自分に気づいたのだ。そして、劇場で出会った一人の魅力的な人物も、その変化に一役買ったのかもしれない。彼の鑑賞の姿勢は、私に何かを教えてくれた気がした。
トスカを観終え、劇場の重い扉をくぐり抜けた瞬間、夜の空気が私の頬を冷たく撫でた。けれど、心の中はまだ、燃えさかる炎のように熱を帯びていた。パルミエのように鮮烈だったトスカの最後の叫びが、耳の奥に残り、感情が乱れるままに私を揺さぶる。足元がふらつくような感覚。
現実の道を歩いているはずなのに、心はあの劇場に取り残されたままのようだった。
感動、悲しみ、そして何か言い知れぬ甘美な痛みが混じり合い、体中に響いている。胸が締めつけられるような感情と共に、一瞬一瞬、涙がこみ上げそうになる。どうしてこんなにも心が揺れ動くのか、私自身が戸惑っていた。オペラはただの演劇であるはずなのに、その悲劇は、私の心の中で息づいているかのようだ。
官能的ですらあったその感情の波は、まるで私自身がトスカになりきってしまったかのよう。彼女の愛、彼女の苦悩、そして彼女の絶望が、私の体を支配していた。愛に殉じる彼女の姿が脳裏を離れない。私もまた、何かに殉じるべきなのかと、そんな衝動にすら駆られていた。
全3幕あるソワレの公演の後、自宅までのバスはもうなかった。最寄駅の公園で、夜と見つめ合う。そこには、日常という確固たる現実が広がっていることに気づき、苦笑が漏れた。なんて滑稽なことだろう、私はただ観客であり、人生の一場面に立ち会っただけのはずなのに。悲劇に心を奪われた後でも、こうして歩く足元には、今日の現実がしっかりと存在している。それが少し可笑しく、そして愛おしく感じられた。
人生という悲劇の中にある、この瞬間の喜劇。それは、オペラという幻想から帰る道の上で、私が見つけた素晴らしい一日だった。
第二幕
2ヶ月が過ぎた頃、私は再び劇場に足を向けることを決めていた。かつての私なら、こんな短期間で再びオペラを観に行くことなど想像もしなかっただろう。けれども、もう私は知ってしまった。音楽が人の心を動かす力を。そして、そこで出会う新たな世界に踏み出すことの楽しさを。
その日、私はいつものように仕事帰りではなく、家から余裕を持って出発することができた。それだけでも、少し特別な気分になる。今回は、事前に本や動画で予習をたくさんした。どんな場面が展開されるのか想像するだけで胸が高鳴る。物語の背景や登場人物の心情、アリアのメロディまでが頭の中で繰り返され、オペラへの期待は膨らむばかりだ。
9月だというのに、案の定外はまだ真夏日が続いていた。日差しは眩しく、風はまだ生温かい。それでも、お気に入りの服を選び、気分は軽やかだった。今日は特別な日だから。まるで、これから始まる喜劇の中で恋する女性にでもなったかのような、そんな心持ちで初台へと向かう。
電車に揺られながら、私は心の中でリハーサルを繰り返す。舞台が上がったら、どんな感情が湧き上がってくるのだろう? 序曲が始まった瞬間、私の心はどのように揺れるのだろう?そんなことを考えているうちに、気づけば初台の駅に到着していた。
劇場へ向かう道すがら、自然と足取りが弾む。まるで、今夜の主役は私であるかのように、空気までもが特別なものに思えてくる。
今回の公演はマチネだった。陽の光が窓から差し込み、ロビー全体を柔らかな黄金色に染めている。前回の「トスカ」の後に漂っていた、張り詰めた悲劇の余韻はすっかり消え失せていた。代わりに、そこには明るく軽快な空気が流れ、まるでモーツァルトの音楽が目に見えるかのようだった。
高らかに響く笑い声や、軽やかな足取りで行き交う人々。その全てが、まるで劇場全体を軽やかに舞う音符のように感じられた。トスカの陰影深い世界とは対照的に、この昼の舞台は、人生の愉悦をそのまま映し出しているかのようだった。
ロビーを行き交う人々の表情も、どこか楽しげで柔らかい。蝶ネクタイをつけた紳士たちの姿も、以前の厳格さとは違い、今日の彼らはより気楽で親しみやすく見えた。明るい色合いのワンピースを身にまとった女性たちが、軽やかなステップでグラスを手にしている。彼女たちの笑顔が、モーツァルトの音楽そのもののように感じられる瞬間があった。
そして私もその一部となり、日差しの中で少し浮き立つ気持ちを感じながら、2幕へと心を馳せる。今日のロビーは、ただの通り道ではなく、モーツァルトが奏でる音楽の序章であり、その軽やかさが人々の心に溶け込んでいるかのようだった。
1幕が終わった時、私はふと複雑な気持ちにとらわれた。この芸術が、長い間、貴族や上流階級の娯楽として楽しまれてきたという歴史が頭をよぎったからだ。私が心を揺さぶられ、人生を考えさせられる瞬間が、かつては権力や富を持つ者たちの娯楽であったことに、どこか矛盾を感じてしまう。
この作品が、貴族たちの前で演じられ、彼らはそれを楽しんでいたのだろうか。裏切りや欺瞞、愛の不確かさが舞台で描かれた時、彼らはそれを自分の人生と重ね合わせたのだろうか。それとも、それは単なる一つの劇であり、彼らの日常とは無縁の、遠い世界の出来事にすぎなかったのだろうか。
私は、そのことを考えるたびに、オペラという芸術の二面性に気づかされる。私が心から感動し、涙を流すこの舞台が、かつては贅沢な宮殿の中で享受されていた。彼らにとってオペラは、人生を深く考えさせるものではなく、ただの娯楽だったのかもしれない。その考えに、少しだけ胸が重くなる。
フィオルディリージの独白が始まるシーンの彼女の声は悲痛で、まるで自らの心の内を引き裂いているかのようだった。自分が愛してしまったもの、その愛が裏切りなのか、それとも真実なのか。彼女の苦悩が一音一音に込められていて、私はそれに圧倒された。
フィオルディリージが感じる道徳的な罪悪感や裏切りに対する自責の念。まるで彼女が自分自身に問いかけているようでありながら、同時に私にも問いかけられているかのように感じた。
彼女の歌声は、苦悩と決意の間で揺れ動いていた。私はその声に引き込まれ、まるで自分自身がその選択を迫られているような感覚に襲われる。フィオルディリージの高貴さ、彼女の心の清らかさが、裏切りの罪を乗り越えようとする必死の抵抗として表れていた。彼女は愛の前に屈服してしまったが、それでもなお誇りを捨てない姿が、私の胸を締め付ける。
このシーンは、単なる個人の恋愛の葛藤を超えて、人間の根本的な弱さと、それを乗り越えようとする決意を描いているのだろう。貴族たちがこの物語をどう受け取っていたかはわからないが、フィオルディリージの苦しみは普遍的なものであり、それが貴族の娯楽にすぎなかったとは思えなかった。むしろ、彼女の人間らしい弱さが、誰にも共感できるものであり、その感情を持つこと自体が彼女を高貴たらしめているのではないかとさえ思えた。
そして今、この時代、オペラは誰にでも開かれている。私は、自分のような普通の人間がこの芸術に触れ、感じ、考えさせられることに価値を見出している。かつての貴族たちとは違う形で、この芸術が私に問いかけてくることの意味を深く噛みしめながら。
二幕のクライマックス。息をするのを忘れるほどの圧巻の歌声を目の前で浴び続け、私は劇場の一部になってゆく。そこに、ドン・アルフォンソの深い声が響く。
「コジ・ファン・トゥッテ」
その一言が発せられた瞬間、私はまるで身体を貫かれたように凍りついた。それまで物語に酔いしれていた私の意識が、突然現実に引き戻される感覚。単なる台詞のはずが、まるでこの世界のすべてを否定し、覆すような力を持っていた。
「これが女だーーコジ・ファン・トゥッテ」彼の言葉は、舞台の上で繰り広げられる愛と裏切り、欺瞞と真実。ドン・アルフォンソは、そのすべてを知り尽くしているかのように微笑みながら、観客にその残酷な現実を突きつけたのだ。
私は自分の心が激しく揺さぶられるのを感じた。オペラはこれまで、優美で感情的な歌声によって私を夢のような世界に導いてくれていた。しかし、今やその世界が崩れ去り、残酷な真理だけが浮かび上がっているようだ。その場面では、登場人物たちの運命が、彼の一言で決定づけられてしまったのだと感じた。
しかし最終的に登場人物達は愛を確かめ合い、ドン・アルフォンソは階段から突き落とされ、幕は降りる。闇に包まれた喜劇だ。
拍手の音が遠くで聞こえ、私はようやく我に返った。しかし、心の奥底ではまだ彼の言葉が響いていた。あの一言が、すべての愛を、すべての夢を裏切りへと変えてしまったように思えた。舞台は終わりを迎えたが、私の中ではまだその余韻が消えない。「コジ・ファン・トゥッテ」という言葉が、永遠に私の心に刻まれた瞬間だった。
翌日、私はまるで夢から覚めたばかりのような感覚に包まれていた。頭の中には断片的な映像や音楽が浮かんでは消え、昨夜の出来事を思い出そうとするたびに、それらは霧のようにぼんやりと滲んでいく。まるでオペラの世界にまだ囚われているかのようだった。
幕が上がり、音楽が始まった瞬間、私は日常から完全に切り離され、あの劇場にただ一人の観客として存在していたような気がする。物語の展開や登場人物の感情が、自分の胸に直接語りかけてくるような感覚に圧倒されていたのだろう。
それなのに、今こうして思い出そうとすると、肝心なシーンはうまく思い出せない。アリアが響き渡った瞬間の感動も、舞台上で繰り広げられたドラマの緊張感も、すべてが夢の中の出来事のように曖昧で、指の間からこぼれ落ちていくようだ。
唯一はっきりと覚えているのは、カーテンコールのときの拍手の音と、胸の奥に感じた満足感。夢のようなひと時だったことは確かで、それだけは決して忘れられない。
こうして振り返ると、観劇とは、現実と夢の境界線を曖昧にする体験なのかもしれない。音楽に包まれ、物語に引き込まれ、気づけば私は自分自身の存在さえも忘れていた。だからこそ、今この瞬間も、あの感覚は私の中で消えずに残り続けているのだろう。
オペラを劇場で観るたびに、私の中で何かが変わる。その感覚を、一言で表すことはできない。単なる音楽ではなく、物語ではなく、その両方が織りなす一体感が、私の心に深く刻まれていくのだ。特にあの瞬間、ドン・アルフォンソが「コジ・ファン・トゥッテ」と発した時、私はこの芸術を単なるエンターテインメント以上のものとして受け止めた。オペラは文学であり、人生を映し出す鏡だと感じたのだ。
いつの間にか私はオペラを文学の一種として読み解いていた。言葉と旋律が織りなす物語は、文学が持つ深さや普遍性に匹敵する。物語の構造、登場人物の心理、言葉の重み。舞台上で歌われる一言一言が、まるで詩のように、心に響く。オペラを鑑賞することは、物語に没入し、人物たちの葛藤や喜びを自分のものとして感じることでもある。
そして私は新たな作品との出会いを求めるようになった。モーツァルト、プッチーニ、ドニゼッティ、それぞれの作曲家が作り出した世界は、独自の美しさと深さを持っている。それらを一つ一つ体験し、自分の中に取り込んでいくたびに、私自身も少しずつ変わっていくような気がする。
オペラという芸術の中で、私は自分自身を見つめ直し、人生に対する新たな視点を得る。そして次の作品へ、また新しい物語を求めて、私は劇場へと足を運ぶ。それはまるで、未知の文学作品を手に取る時のような期待感と興奮だ。オペラは、私にとって新たな出会いを与え続けてくれる無限の文学の世界だ。