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おじいちゃん、ありがとう。

祖父が今年2月、90歳でこの世を去った。

言葉通り"おじいちゃんっ子"だった私にとって、衝撃的な出来事だった。

電話で報せを聞いたときは泣いた。
悲しみ、寂しさ、たくさんの感情が押し寄せた。

しかしそれから数か月がたち、改めて祖父のことを思い出してみると、心は穏やかだ。

祖父と過ごした日々、祖父が残してくれたものへの感謝だけが、深く残っている。

そんな感謝の気持ちと、そこに至った経緯を、忘れないよう記しておこうと思う。

サードプレイスであった祖父

そもそも、なぜ私が祖父をそこまで慕っていたのか。

思えば祖父は、いつも私を受け入れてくれた

祖父と私。1989年。

小さいころから、”相手をしてくれる”のではなく、いわば”友達”のようなスタンスで、一緒になって遊んでくれた。

大きくなるにつれ、大人たちが私の振る舞いについて、ああしなさいこうしなさい、というような場面でも、祖父は「好きにやればいいよ、香里は香里なんだから」と言っていた。

留学するときも、就職するときも、結婚するときも、私が決めたことだから、と祖父は喜んで送り出してくれた。

周囲からは「甘い」おじいちゃんと思われていたかもしれないが、自分の味方と思える大人が少なかった私にとって、祖父は唯一、無条件で自分を認めてくれる存在だった。

祖父と私。2016年、銀座にて。

だから、私は祖父が好きだった。
そして、そんな祖父から、私もたくさんの愛情を注いでもらった。

祖母のすごいところ

そんな祖父がいなくなってしまい、寂しかった。

祖父との思い出、祖父への想いを、誰かと語りたかった。

そういうわけで、葬儀が一段落した折を見て祖母に連絡し、翌週には祖父母宅を訪ねていった。

ちょうど、祖母は今年の梅干しを漬ける準備をしていた。私と祖父の好物である。

都内にある祖父母宅に到着すると、祖母は、「よく来たねぇ」と穏やかな顔で私を迎え入れてくれた。

考えてみると、祖母と二人きりで話をするのは久しぶりだ。

用意された昼食を食べながら、他愛もない話をひとしきりしたあとに、祖母は今の心境を話してくれた。

寂しさ、不安、恐怖など、一人になってみて初めて感じたことがたくさんあるようだった。

しかし、祖母はこう続けた。

それでも、生きていかなきゃいけないからね。一人きりでは無理だし、まだ先のことはわからないけど、今はできることをとにかくやるつもり。」

こういうところが、祖母のすごいところだと思った。

祖父も、こういう祖母だから好きになったのかもしれない。

以前祖母に贈った色紙。二人は、いつも穏やかだった。

”夫”としての祖父

その日、祖母は私の知らない祖父の話をたくさんしてくれた。

戦後すぐ、東京日本橋のとある企業にて、燃料売りのアルバイトから正社員登用され、ついには定年まで勤め上げたこと。

若かりし頃、当時富山に住んでいた祖母を迎え入れるため、本人へのプロポーズもないうちに東京に一軒家を建ててしまったこと。祖母は、そこまでされて結婚を断れなかった、と笑っていた。

当時祖父が建てたこの家に、祖母は今も暮らしている。

祖父の父が仕事を優先し、家庭を顧みなかった人だったことへの反動で、祖父は家庭を最も優先する人であったこと。

最近では遺品を整理していたら、靴下が200足くらい出てきたのだが、それが祖父の持つスーツやネクタイの色とすべてリンクしていることから、どうやらかなりのお洒落さんであったようだ、というところにまで話が及んだ。

”おじいちゃん”としての祖父

そして私も、祖父との想い出を語った。

祖父母の家に泊まりに行くと、寝る前に必ず昔話をしてくれたこと。新しい話を聞かせてほしいとせがむと、次回までに必ずラジオから新作を仕入れてきてくれた。

私が夜トイレに行くときは怖くないように必ず付き添ってくれたこと。朝寝坊しそうになっても、他の大人たちにバレないようこっそり起こしにきてくれたこと。

祖父と二人で行く定番お散歩コースや、祖父と電話するときの合言葉。

一緒にボンタンアメとおせんべいをよく食べたこと。

祖父が、私のことを大好きだと言ってくれたこと。

でも、その私が「100歳まで生きてね」と言っても、「そんなに長くは大変だから、90歳くらいまででいいかな。」とそこは頑なだった。
(90歳で永眠したのは有言実行だったね、と、祖母と笑った。)

嬉しいこと、悔しいこと

話し終える頃、私の記憶の中の祖父は、すこし立体感を増していた

これまで知らなかった祖父を、たくさん知ることができたからだ。それは嬉しいことだった。もしかしたら祖母も、そうだったかもしれない。

一方で、悔やまれることもあった。

生前に祖父本人の口から、祖父が感じていることについて、ほとんど聞くことができなかったことだ。

昔どんな仕事をしていたか、最近どのように過ごしているか、そういうことを祖父はよく話してくれた。でも、そのとき何を感じたか、どんなことが嬉しくて、どんなことが嫌だったか、そういうことはあまり知らなかった。

ケーキを食べ切った理由

「おじいちゃんの人生は幸せだったのかなぁ」

私は呟いた。

「それは、その人になってみないと分からないけどね。これだけ想ってくれる人に囲まれてたんだから、幸せだったんじゃないかな。」

と、祖母は言った。その人になってみないと…確かにそうだ。

祖母の目線の先には、照れくさそうに笑う祖父がいた。卒寿(90歳)のお祝いの際、家族みんなで集まって、大きなホールケーキを囲んで撮った写真に写った祖父。

食が細かったにもかかわらず、祖父は1ピース分を食べ切ったらしい。

「あの日、よほど嬉しかったのかおじいちゃん、なんとケーキを一切れ食べたんだって。」という母の言葉を思い出していた。

めいっぱい対話しよう

祖父は、その生涯の中でたくさんのものを、私に与えてくれた。

私は、祖父に何か返すことができただろうか?

そのことについて本人に確かめたいと思っても、それはもうできない。

生前の祖父の部屋。私の描いた絵や写真が、たくさん飾られている。

「おばあちゃんの好きなところは?」

「あの日、なにを思ってケーキを食べたの?」

「おじいちゃんの人生は、どんな人生だった?」

そんなことを聞きたくても、もう祖父はここにはいない。

それでも、残された者は生きていく。

だから、これからは大切な人達と、もっとそういう話をしよう。

何を感じて、何がしたくて、何を幸せと思うのか。

生きているうちに、めいっぱい対話しよう。

私はそう思った。

おじいちゃん、たくさんの想い出を、ありがとう。

そして、大切なことを教えてくれて、ありがとう。

どこかで会えたら、次はたくさん話そうね。

その日祖母とたっぷり話し込んだあと、

一緒に梅干しを漬けながら、私は心の中で祖父にそんなことを語りかけていた。




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