たたかうわたしたちへ
最初に言っておきたいのだが、わたしはこの文を、こどもたちに向けては、書かない。
18歳だった自分に向けて、書く。
ここのところ、長期休みが終わる頃になると「学校に行かなくていいよ」「逃げてもいいよ」という主旨のことばを見かけるようになった。
新学期を憂鬱に思うこどもたちに向けられた、まぎれもない優しさだ。
それぞれに困難を乗り越えてきたおとなたちのことばに、明日への恐怖を少しやわらげるこどもたちも、きっといる。だから、わたしはそのことばに反発を抱くべきではないのだ。
そう言い聞かせているにもかかわらず、「うるせえ」という声がした。心臓の地平のまんなかに、その声はぽつりと湧いてきた。
18歳の頃のわたしは、「行かなくてもいいよ」と言われたくなかったからだろう。
優秀な生徒だったと、自分でも思う。成績もまあ、いい方。吹奏楽部の部長で、将来は医者になりたかった。
高3の春、数学が致命的にできないということを目の当たりにして、学校にいけなくなった。
みんなが机に向かって勉強しているときに、わたしは布団の中にいた。
みんなが模試を受けている日に、わたしは歩道橋にいた。
みんながそれぞれに美しくなってゆくなか、わたしはドンキホーテの化粧品売り場で手首の傷を隠していた。
学校にいく、という当たり前のことができなくなったとき、わたしは恐れた。
これまでつくりあげてきた優等生な自分というかたちがこわれることを、ひどく恐れた。
学校にいけない以上、わたしは「学校にいけないこと」とたたかうことで、一種の自尊心を保っていたのだと思う。
いかなくてもいいとは、おもわない。いかなくては、とは、おもってる。べんきょうしなくちゃって、わかってる。
(だから、こわれてないよ、ゆるして)と。
それをもし、「行かなくてもいいよ」と言われてしまったら、終わりなのだ。たたかう相手はもう自分しかいなくなって、それは当時のわたしには、恐ろしすぎた。
己の惨めさ、浅ましさ、滑稽さに、面と向かって立ち向かい、直せなくとも理解することができる18歳だったなら、たぶんわたしはふつうに学校にいって、ふつうに卒業しただろう。それができないから、わたしは「学校にいけないこと」そのものに向き合う(または向き合うふりをする)ことで自分を保とうとした。
その均衡を知ってか知らずか、恩師は必ず、「ちょっと出てこないか」と電話をくれた。
「休んでいいよ」「無理するなよ」とは言わず、「ちょっと出てこないか」。
そうするとわたしは、「先生に呼ばれたから行く」という建前ができて、学校に行くことができた。
当時朝は起きられなかったから、国語科準備室はいつも西日が差していて、先生のブルゾンも、クラシックが流れる古いオーディオもオレンジ色をしていた。わたしはぎりぎりの細い糸を手繰るようにひとと会話し、ひとに接することができていた。
その頃のことを書いた短いエッセイで、わたしは賞をもらった。新聞に載ったわたしは、やけに顔が丸く、張り切って塗った口紅が妙に浮いてはいるけれど、それはそれは嬉しそうだった。
いま、塾で不登校の生徒と向き合うときは、気をつける。彼らのたたかいの本質を、できる限り拾いたいと思う。
そして、学校に行っている子も、同じことだ。
こどもたちは、たたかっている。わたしができるのは代わりにたたかうことでは無論ないから(そして大抵の場合、彼らはわたしなんかよりずっとつよいから)、「たたかっていることを知っているよ」と、伝えようと思う。
あれから10年以上経ってなお、1ヶ月に一度くらいは、卒業式の夢を見る。わたしの出ることのなかったその場所で、わたしは大抵失笑を買い、憐憫を向けられ、必死に身につけた虚勢をはがされて立ちすくむ。目が覚めてからもしばらく動悸がする夢だ。
そのたびに、わたしは気付く。わたしもまだ、たたかっているのだ。前よりはすこし、自分をなだめたり可愛がったりできるようになりながら、たたかっている。
みんな、おたがいを労わりながら、それぞれがたたかっていけたらいいな、と思う。いつの日かたたかわなくてもよくなっていたら、もっといいな、とも、思う。
「わたし」遺産ーhttps://www.smtb.jp/personal/watashi-isan/award4/champion/entry_003/index.html