「怒る」ことについて
精神的パーソナルスペースというのが、存在しているように思う。
一般的なパーソナルスペース同様、個人差がある。狭い人もいれば、広い人もいる。
明るいとか暗いとか、その人の性格を抜きにしても、その距離感さえうまくつかめれば、なんとなくうまく話は進むような気がする。
(いうまでもないことかもしれないが、わたしは精神的・肉体的どちらも、パーソナルスペースが広くないと、苦しいタイプの人間だ。魚なら、サンゴ礁には棲めまい。間違いなく深海魚。)
世の中をぼんやりと眺めていると、最近、この「精神的パーソナルスペース」に踏み込んで、そのひとの場所で怒っている人が多いように思えて、そら寒く、恐ろしい気持ちがする。
自分の領分を踏み荒らされたり、大切にしているものが危険にさらされたりしたら、誰だって怒る。
わたしなんかは、それを恐れるあまり、初対面の人たちへは、ものすごく高い防御壁を築いて中でニコニコ笑っていたりする。
怒ることそれ自体は当然の反応で、「ほんと!?なにそれ!最悪だね!」という同調も、あってしかるべきだと思う。わたしが見ていて怖いのは、怒るはずだった人の場所に成り代わって、自分の怒りを振りかざす人だ。
「そういえばわたしも前に同じことが」と怒り出す分には、まだいい。
なんだか、当事者より、周りが怒っていないか。
しかも、当事者のことを心配しての怒りではなくて。
誰かを糾弾したいという欲求さえ、滲み出ているように見えるのは、わたしが部外者を決め込んでいるせいなのか。
何より恐ろしいのは、「わたし、もしかして、それやってないかな」ということだ。
怒っていると、いつのまにか当事者のことは、忘れがちになる。
怒っている人が増えれば増えるほど、本来怒っていた人の声が聞こえなくなる。ふと気づくと、強いうねりに巻き込まれていて、何も聞こえない。
アドラー心理学によれば、人間関係におけるほとんどのトラブルは、「相手の課題に土足で踏み込むこと」から起こる、という。
課題は、本来個人個人で解決すべきものである。
「子どもが勉強しなくて困っているんです」という母親がいる。
実は、困っているのはお母さんではない。勉強しないのは、子どもの課題だからだ。勉強しないことの結果は、子どもが引き受けるものなので、困る必要はないのです、と、アドラー研究第一人者の岸見先生は説く。
それから考えると、怒っている誰かがいるとき、(社会的問いを含んだとしても)それは個人の課題であって、困るのも怒るのも、受け取り手の問題になる。
同調するかどうかも、個人の問題だ。気をつけたいのは、相手の領分に立ち入って感情をあらわにしないことだと、わたしは思う。
わたしは怒っている人を見るのがものすごく苦手なので(怒る人と、怒られる人と、自分との区別が、つかなくなるのだ。こわい。)、できることなら怒りたくないし、怒られたくない。
でも、やっているのだ。絶対。
他人の課題に踏み込んで、人のことで怒ったりイライラしたりしている。
サッカーだったら、どうしようもないゴールキーパーだと思う。
守るべき自分のゴールをほっぽらかして、相手方のゴールや、場合によっては、別の試合のゴール前で声を張り上げているようなものだ。
教室に泥まみれのキックボードを持ち込んだり、キャラメルコーンを一袋ぶちまけたりする小学生をとっ捕まえて怒鳴る1秒前に、誰かこれをわたしにリマインドしてくれ、と、心から思いながら仕事をしている。