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うみだすこと

次は何をしようと思ったんだっけ、と現実に戻ると、今私がしていることって何だっけ、何がしたいんだっけ、と真っ白になる。何かを自分で作り出すことって、家から外に出る時みたいだ。少し億劫で、どこに行くか決めないと不安。一歩外に出てしまうと楽しいし、何とかなるのに。

卒論を読み返したら、私が何を大事に思っていたのか、そして、それは今に続いていて、今も同じ考え事をしていることに気がついた。私の卒論。なぜか自己評価がとても低い。でも、それをZINEとして再編集してみたい、と思っている自分が確かにいた。でも、どう始めたらいいかわからなくて、真っ白なページの前で、ただ座っていた。作っている間、どんなに苦労したとしても、完成品を読み返すのは楽だ。自分で作っても、その苦労を忘れていて、またつくりたいなって安易に思う。でも、作り出そうとすると、無限の自由の前にたちすくんでしまう。脳の中から何を選んで文字にしたいか、何を表現して見えるようにしたいのか、選ぶ段階で、脳が絡まっていることに気がついて、途方に暮れてしまう。きっと、自分で何かを作ることなく、誰かが作ったものを受け取ることだけをしている人は、作っている間の葛藤を知ることができないのだと思う。完成品を簡単に手に入れて、感想を持って、それをインターネットの海に放ることが簡単にできる。だから、感想を言う人は上から目線の人が多い気がする。そして、私もそうだったと思う。それに加えて、生み出すからには注目されるもの、お金になるもの、コスパ、タイパ、隙間時間の活用、など、現代を覆い尽くす資本主義と能力主義が手を組んで目の前から歩いてくる。私が何かを生み出そうとPCの前に座っている時間は、「無駄」なのではないかと繰り返し問われているように思える。それはきっと私が何かを作り出すことに慣れていないから。向き合うことに慣れていないから。私に必要なのは、PCの真っ白なページの前にいる何も生み出せない時間、何もしていないみたいに思える時間を、今は何かを生み出している、と自分に思わせること。許すことなんだと思う。

こうやっていざキーボードを打ち始めると、書こうとも思っていなかったことがすらすら出てきて不思議だ。やっぱり、私の脳を離れてしまったら、もう他者なのかもしれない。話す言葉も、書く言葉も、自分のものと思っているけど、本当はもう私自身ではなく、他者なのかもしれない。だから、私の脳から離れさせて、この世界に残る形として、写し取っていくことを続けていくと、写し取ることがだんだん上手くなって、より脳の中に近い形を表現できるようになるのかもしれない。私はまだまだ何もかも始まったばかりだ。

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