見出し画像

1人の女性がエンジニアになるまで〜amakawaの場合〜

@wirohaさんの記事をきっかけに、Twitterでは女性エンジニアが自分の経歴を書いてシェアする流れが起きているので私も書いてみます。

幼少期からITに興味を持ちつつも、女性であるがゆえにチャンスを掴みきれなかったエピソードをいくつか拝見しましたが、私の経歴はある意味真逆です。
24年間ITにまったく興味がありませんでしたが、家庭環境や他の業界で感じていた不満がIT業界に来てかなり解消され、救われたと思っています。

現在28歳。エンジニア歴2年半で技術的につよつよではないけど、仕事が好きです。最近はNext.js×Railsで猫グッズレビューサイトを作ってます。

先に断っておきますが、モラハラやDVの話が出てくるので苦手な方は読まないでください!

幼少期〜中学生

出身は愛知県の某自動車メーカーで有名な街です。住宅街と工場しか無い街で親は超インドア派だったため、土日や長期休暇は「どうやって暇を潰すか」ばかり考えていました。

6畳の子供部屋を埋め尽くすサイズのダンボールハウスを作ったり、ベランダにラップと割り箸でミニ温室を作ったり、ハムスター用のおもちゃを自作して友達にプレゼントしてました。今思えば「何かを作る」のは当時から好きだったのかもしれません。弟と一緒にゲームをするのも大好きで、自分が描いたゲームの二次創作4コマが友達の友達にまで回覧されていたのがとても嬉しかったです。

それと同じくらい熱心だったのは勉強でした。もともと読書と勉強は好きでしたが、より真剣に勉強するようになったきっかけがあります。

うちの父親は「女は黙ってろ」「誰のおかげで飯が食えてるんだ」と口癖のように言い、反論すれば「こ◯すぞ」と怒鳴ったり物を投げつけてくる人でした。父は他にも浮気・金銭トラブル・仕事サボりとトラブルが尽きず、両親の喧嘩も耐えません。当時9歳の私は、その日も父に怒鳴られ「もうパパとは離婚してほしい」と泣きながら母に頼みました。

そして、今でも鮮明に覚えています。料理中だった母は水道を止め、怒鳴りました。

「ママだって離婚したいに決まっているでしょ!!ママは高卒で仕事も無いから離婚したら生活できないの!!離婚したら〇〇(私)も高校に行けないよ!?それでもいいの!?」

...

...

「じゃあ、離婚しなくていい」

そう言うのが精一杯でした。

この時「勉強しない=お金が稼げない=お金のために嫌いな人とも一緒に暮らさないといけない」という式が自分の中で作られ、「たくさん勉強して、いい学校に行って、たくさんお金を稼ごう」と強く決めました(極端な考えですが当時9歳なので勘弁してください)。

高校生

その後はより真剣に勉強するようになり、成績優秀で部活も生活態度も真面目な「THE・優等生」でした。

萎縮ぎみで大人しすぎた性格は、吹奏楽部のパートリーダー(楽器ごとのリーダー)を通してだいぶ解消されたように思います。技術力や強いリーダーシップは無くとも、各メンバーの得意分野やクセを見つつ、練習メニューやかける言葉を考えるのが好きでした。リーダー的な役割をする時の振る舞いのベースはここにあります。

家庭環境は残念ながら悪化していました。中学ごろに父親が難病で失明してから、父の自殺未遂や母の浮気に振り回されるのに疲れ、勉強を理由に家にいる時間を減らしました。家庭環境がコントロール不可能だった分、努力した分成果が出る勉強にますますのめり込み、高3の冬には第一志望の国立大学(外国語学部)にB判定まで届きました。

しかし奨学金の申請直前に、父親が障害者手帳の申請を拒否しました。返済不要の奨学金への申請には障害者手帳の写しが必要で、すでに失明していた父は要件を満たしていたので手帳を取得してほしいと母が頼んだのです。

「障害者手帳なんてみっともない」「女は大学になんか行かなくていいんだ」「お前みたいな生意気な女が大学に行ったらますます生意気になる」「親を障害者にしてまで大学に行きたいのか」「お前も将来目が見えなくなるから勉強したって意味ないぞ」

父は勉強中の私の部屋に入ってきて度々怒鳴るようになりました。

結局、奨学金の申請は諦めました。「要返済の奨学金は借りてほしくない」という家の方針から、県外の第一志望の大学は金銭的に不可能。母のパート代と母方の祖父母の支援で、地元の国立大学にセンター推薦で行くことになりました。興味の無い法学部でしたが、進学できないよりマシ。精神的に限界が来ており、早く受験を終わらせたい気持ちもありました。

家庭環境も精神的にも一番落ちていた時期でしたが、この時に1日10時間受験勉強をできたことは自信になりました。最悪な時期に一番努力したからこそ「あの時頑張れたから頑張れる」と今でも思います。

大学

法学部に進んだものの、最後まで法律にはそんなに興味が湧きませんでした。大学2年で「特許翻訳者」という特許文書専門の翻訳の仕事を知った私は、「これしかない!」と週8のバイトで留学費を貯めつつ、英語の勉強を始めました。
帰国後は工業英検や特許翻訳のテキストを解きつつ、YouTubeの動画に日本語字幕をつけて遊んだり、新聞記事の翻訳コンテストに応募をしていました。「翻訳」という作業がとにかく楽しかったです。

その一方で、就活では一般企業の総合職も何社か受けていました。心のどこかで「国立大を出たからには総合職として働くべき」「新卒で事務職になったら総合職には二度とつけない。取り返しがつかない」と考えていたからです。給料の低い事務職についたら、私は母のようになるのでは?という恐怖もありました。

最終的には翻訳が諦められず、8人ほどの特許事務所に事務員として就職して、そこから翻訳者を目指すことに決めました。私は就活に満足しましたが、家族や周りが「〇〇大出たのに事務職なんてもったいない」「学費が無駄になった」と言うのが辛かったです。

社会人

新卒で働き始めて半年、社内の翻訳者が1人退職して翻訳の仕事のチャンスが来ました。事務の仕事は減らないので、残業もしつつの翻訳です。休日も翻訳の勉強でしたが、高校からの憧れの仕事は本当に面白かったです。

しかし、平均年齢40歳overのためか、社内文化は古いものでした。
正月に事務員の女性が餅を調理してデスクに持っていったり、お土産の配布やごみ捨ては暗黙的に女性の仕事なのがモヤモヤしました(事務長の男性はやらなかった)。

一番イヤだったのは、新卒2年目に新入社員が0だった時。所長に「あんたがもっと可愛い格好して、母校訪問でもすれば新人が入るかもなぁ」と言われました。セクハラだけでなく、新入社員=男性という考えが透けて見えて心底ガッカリしました。

結婚

24歳の時、学生時代から交際していた人と結婚しました。所長に報告した時の第一声は「なんだ、あんたも腰掛けか」。

そして数日後、事務の先輩に突然「仕事やめちゃうの?」と聞かれました。なんと、所長が「結婚したし、あの子(私)も辞めちゃうんかなぁ」と他の所員に話していたとのことでした。

それまでも、形だけの評価面談やセクハラが理由で、その会社でキャリアを積むことに疑問を感じていました。しかしこの一件で「結婚した女性」というだけで、仕事の意欲も今後のキャリアまでも勝手に判断されることが分かり、会社を見限りました。

実はその数ヶ月前から、元組み込み系エンジニアの夫にプログラミングを勧められ、趣味としてprogateで勉強を始めていました。

翻訳という、他者の創作物があるからこそ成り立つ仕事に長期間ハマっていたため、0から何かを作るのは久々でしたが、自分が想像したものが画面上で形になる過程にワクワクしました。当時ハマっていたトルコ語の学習用に、トルコ語神経衰弱やパズルを作って遊んでいました。

また、プログラムを書く際には、処理内容を定義したり重複や共通部分を整理すると思いますが、この作業は翻訳の感覚に近いものでした。プログラミングも「プログラミング言語への翻訳」みたいだなと感じ、苦戦しつつも勉強は楽しいものでした。

この頃から本気でエンジニアを目指してみようと考え、もくもく会に参加しつつ、React.jsやFirebaseの勉強も始めました。

転職

ただ、正直に言えば最初は勉強会に行くのも抵抗がありました。
人見知りな上に、男性が多い業界だと夫から聞いていたからです。それでもエンジニアと話してみたいという気持ちで飛び込んだところ、予想は良い意味で裏切られました。

技術の話、勉強方法の話、名古屋のベンチャーの話をたくさん聞くことができ、自分が少数派の女性であることはまったく意識せずに済みました。一度参加すれば相手が私を覚えてくれるケースも多く、登壇やイベント参加したときは少数派の女性でむしろラッキーだなと思いました。敬遠されることもなく、丁重に扱われることもなく、1人の参加者として同じように扱ってもらえることが本当に嬉しかったです。

その後、面接や勉強会でも女性のエンジニアに会うことはほとんどなく、4社受けましたがどこもエンジニアは男性とのことでした。しかしそれまでの経験で、女性一人でも嫌なことはなさそうだと感じていたので、不安はなく名古屋のベンチャー企業に入社を決めました(この後、社内にも女性エンジニアが増えて嬉しかったです)。

入社2ヶ月目からは先輩と2人で社内ツール(Ruby on Rails)の新規開発を担当することになり、要件定義からコーディング、運用サポートなど初めての作業だらけで一杯一杯でした。当時のCTOは厳しく、アプリケーションの動作や用語を自分の言葉で説明できないと「それってどういうこと?」「違う!調べて」と繰り返し言われ、悔しさからトイレで泣くことも多かったです。バイトの学生さんに「そんなことも知らないんですか?」と言われたこともありました。エンジニアが実力社会であることを改めて感じつつも、既婚者の女性である自分が1人の戦力として他の男性エンジニアと同等に扱われることが嬉しく、プライベートでも個人開発をしたり基本情報技術者試験に合格することでスキルをつけようと必死でした。

そして入社半年経った頃、新規開発でPMにアサインされました。社内ツールの開発時に、ステークホルダーとコミュニケーションを積極的に取っていたことや、問題の整理や言語化ができていた点が評価されたそうです。エンジニアを兼任しつつPMの勉強もすることになり忙しくなる一方でしたが、仕事がどんどん面白くなりました。チームには年上の男性もいましたが、このときには性別や年齢を意識することはほぼありませんでした。

入社して1年経った頃には、社内MVPの受賞や昇給など取り組んできたことを評価していただける機会も増え、仕事への意欲もどんどん上がりました。悩んだり努力している姿を見守ってもらえること、それを評価してもらえることは、決して当たり前ではないと分かっていたからこそ、嬉しかったです。今度は嬉しくてちょっと泣きました。

2回目の転職

それからさらに1年半、次はプロダクトマネジメントとプロジェクトマネジメントを専門に働くために転職を決意しました。名古屋ではなかなかポジションが見つからず、夫とは別居婚して1人で東京に出ることを決めました。私のワガママを聞いて応援してくれる夫には本当に感謝しています。

(転職の詳細はこちらの退職エントリをどうぞ)

25歳でエンジニアに転職して、28歳になった現在、キャリアについては少し焦りを感じています。30代前半で子どもを産むのであれば、あと5年ほどで産休・育休を取っても復職できるほどのスキルと信頼を得なければいけません。もちろんパートや専業主婦という選択肢もありますが、経済面で夫婦の一方に依存するのは両親の姿を見ていたので抵抗がありますし、仕事は楽しいのでフルタイムで働きたいです。そうして逆算していくと、現在のベンチャーであと5年の残り時間を使うのはキャリア形成的にややリスクがあると判断しました。

東京に転居しても、名古屋で始めたコミュニティ運営(みそかつウェブ)は継続しています。将来愛知県に戻る可能性も0ではないので、それまで名古屋のITコミュニティの活性化に寄与しつつ、人脈も絶やさないようにして、自分の選択肢を将来的に増やせるようにしておきたいと思っています。また、愛知は女性エンジニアが少ないからこそ、自分がコミュニティに残り活動を続けることには意味があると考えています(やや傲慢な考えかもしれませんが)。

おわりに

前半暗い話ばかりで申し訳なかったのですが、このような家庭環境だったため、私には高校生くらいまで男性に対する対抗意識や苦手意識が非常に強くありました。

そこから男性が多いIT業界を通して、性別を意識せず働けるようになったというのは不思議に感じる人もいるかもしれません。これは、IT業界で今まで会ってきた人達が、私を1人のエンジニアとして普通に扱い、チャンスや評価を下さったからです。「男性が多いから」という理由で敬遠する女性も多いかもしれませんが、性別の比率は本質的なことではありません。互いを1人の人間として偏見なく接し、対話ができるかがずっと重要だと思います。これができる人にたまたま多く出会えたため、私はIT業界に入って救われました。

他の方のnoteを読む限り、IT業界はまだ男女が同じだけ活躍しているとはいえない状況のようです。それでも、この業界には問題を自分事として考え、行動を起こせる人が多く集まっています。私はこれから状況は良くなっていくと信じてますし、自分も働きながら、noteやコミュニティで情報発信をすることで力になりたいと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?